第四 支那との交通 政治の改新
大陸輸入の文化は、推古時代に至りて燦然たる光を放ちたるが、この頃また社會の制度にようやく弊害を生じ来たれり。古来行われたる氏族制度は、氏によりて職業を別にしこれを世襲するより、その業に専らにして事に精しきの利ある上に、氏族はそれぞれその氏上によりて統率せられ世業を守りて互いに相をかすことなく、各自の團結を固むるとともに、いずれも皇室を中心として一致協同し、整然たる社會組織の下に政治もよく行われたりき。されど大陸交通の結果は、彼の文明しきりに流入して漸次社會の複雑におもむくに及びては、從来の制度は到底進歩せる時勢に伴なふべくもあらず。すなわち職業世襲の習わしは、家業に適せざるものもなお父祖の後を繼ぎ、他に人材あるもこれを用ふるに餘地なきが如き弊害少なからず、また一方には有力なる氏族はほしいままに人民を私有して意のままにこれを駆使しあるいは勢いに任せて山海・林野を兼併し、年を逐うてますますその權をほしいままにするに至りぬ。中にも道臣命の後なる大伴氏と、可美眞手命の後なる物部氏とは、代々軍事にあづかるとともに、互いに大連となりて大政に参與し、これと相竝びて大臣として朝政を補佐するものに蘇我氏あり。蘇我氏は勲功竝びなき武内宿禰の裔にして、満智以来國家の財政權を握り、後、朝廷の外戚としてますます重きを加へたりき。かくてこれらの名族相對立して、各々強大となるに從いて互いにその權力を争いたりしが、大伴金村が對韓政策を誤りて、欽明天皇の朝、物部尾輿のために弾劾せられてより、大伴氏の勢威また舊の如くならず。然るにたまたま佛教の傳来は、さらに蘇我・物部両氏軋轢の端を啓き、遂に蘇我氏は物部氏を滅してその資産を収め、ひとり政權を占めたれば、馬子・蝦夷・入鹿の三代に至りては富皇室にもまさりて、無道の振る舞い少なからす。貴族専權の弊實にここに極まりぬ。

かかる社會の趨勢を視て、はやくも政治を革新し、皇威を振張せんとしたまへるは聡明なる聖徳太子なり。太子は佛典のほか儒學を博士覺狽ノ受け天文・地理の諸學を百濟の僧観勒に學びて悉く通達したまふ。さればまづ官位の制をはじめ、大小徳、大小仁、大小禮、大小信、大小義、大小智の十二階を定めて、紫・青・赤・黄・白・黒の六色を以て區別し、これを授くるに當たりては、舊来の家格にかかはらず、専ら事功あるものを選び、人材登庸の途を開きたまへり。また儒教と佛教とを折衷融和して、十七條の憲法制定し政治・道徳上の標準を官民に示したまひしが、特に豪族の土地・人民を私して専權を極むるの時弊を戒め、以て君臣の大義を明らかにしたまへり。

かく太子は政治を新たにし文化を進めて、一に國利民福を圖りたまひしに、不幸にも御病を得、御位に即くに及ばずして薨じたまひしかば、萬民愛惜して哭泣の聲行路に満てり。太子の御子山背大兄皇子また徳望一世に高かりしに、蘇我入鹿これを忌みてその御一族を滅したてまつりて、頗る暴虐を極む。英邁なる中大兄皇子はこれを憤りたまひ、太子の御遺志をつぎて皇威を回復せんとしたまふ。時に中臣鎌足天資忠誠にして夙に匡濟の志あり、たまたま法興寺の蹴鞠の遊を機として、皇子に親近したてまつり、相共に南淵請安に經學を學びて、往還の途上互に密議をこらし、紀元一千三百五年第三十五代皇極天皇の四年六月三韓朝貢の日、入鹿を大極殿に誅し、ついでその父蝦夷をもうち滅し、はじめて積年の宿志を達したりき。

多年驕奢専横を極めたる蘇我氏の宗家ここに絶え、その莫大なる領土・資産を悉く収公せられたれば、從来の積弊を一掃して社會の制度を革新するの機まさに到れり。この頃恰も我は支那と交通して大陸の事情に通ずるもの少なからず、加ふるにその國情は頗る我が情勢と似たるものありしかば、おのづから制度の模範を彼に取りていよいよ古来の氏族制度は改められぬ。これより先、支那大陸の文物は朝鮮半島を經て我が國に傳はりしが、年を經るに從いて紛亂しばしば半島の地に起こり、我が統帥また宜しきを得ず、遂に欽明天皇の二十三年任那日本府の滅亡せしより、歴朝これが復興を圖りたまいしも、半島の經營はますます困難となり行き、文物の輸入また意の如くならず。されば聖徳太子はむしろ支那と隣國の好を修め、兼ねて佛教・文物を直接彼に學ばんと思召され、紀元一千二百六十七年推古天皇の十五年、小野妹子を支那に遣はして、はじめて國交を結ばしめたまへり。時に支那は隋の世にして久しく分裂したりし全土を一統して、國勢俄に揚がり、煬帝に至りて統一の制度大いに整い、文物また燦然として四隣に輝きたり。我のはじめて國交を開きしは、恰も煬帝の大業三年にして、彼はみづから持すること尊大にして、殆ど他國を屬國視するの風ありしに、太子は堂々これと對等の國交を結びて、毫も我が國家の體面を辱かしめたまわざりき。
太子はまた歸化人の子孫なる高向玄理・南淵請安・僧旻など八人を小野妹子に從はしめて、支那に留學せしむ。すでにして支那にては隋滅びて唐の世となり第三十四代舒明天皇の御世には犬上御田鍬・薬師恵日らを遣唐使としてはじめて彼に派遣せしより、その後歴朝絶えず使節・留學生の發遣あり、唐使もまたしばしば来朝して、互いに聘信を贈答せり。これらの留學生は永く唐に留まりて修學し、頗る彼の制度・文物に通暁して歸朝したるに、我が國にては、恰も從来の社會制度を改廢して新たに統一制度を布かんとする際なれば、直ちにこれらの人々の新知識を利用して、いよいよ革新の政治を實施するに至れり。されば第三十六代孝徳天皇皇極天皇につぎて立ちたひ、ここに御英斷をもって政治社會の組織上に一大改新を決行したまはんとするにあたり、支那の制に倣ひてはじめて大化の年號を定めたもふ。これより中大兄皇子皇太子として専ら大政を翼賛したてまつりしが、太子はさきに南淵請安に就きて學び今や更に高向玄理・僧旻を國博士とし、これを顧問として新政に参與せしめ、制度の範を多く彼に取りぬ。まづ官制に於いては、執政世襲の制度を改め、中央政府には大臣・大連を廢して新たに内臣と左右大臣とを置き、功臣中臣鎌足を内臣に、名族蘇我石川麻呂、阿倍倉梯麻呂を以て各々左右大臣に任命せり。中央には、今までの國造・縣主などを止めて新たに國司などを置き、いづれも古来の家格にかかはらず、主として材幹あるものを用ひて、ひろく人材登庸の主義を實行せり。また天皇は從来皇族をはじめとして臣・連家などの所有する部民と田荘とを全廢し、天下の土地・人民を擧げて朝廷に歸して悉く公地・公民となしたまひしが、この際皇太子は御みづから率先して「天無双日國無二王是故兼併天下可使萬民唯天皇耳」と奏し、まづその所有したまへる部民五百二十四人及び屯倉一百八十一箇所を天皇に奉還し、以てこれが模範を示したまへり。
ここにおいて國民また大義名分のあるところを知り、全國の豪族いづれも太子に倣いて、その世襲する財産を奉獻したれば、聖旨は忽ちにしてよくを貫徹せられぬ。なほ今まで貴族がほしいままに土地を兼併して富貴を極むるに反し、貧民は尺土をさへ有せざるもの多く、貧富の懸隔甚だしくありし弊に鑑み、令して私に土地を賣買することを禁じ、更に全國の人民の數を調査して戸籍をつくり、これによりて新たに班田収授の法を行ひ、一旦収公せし土地を全國民に均一に班給することとせり。これを口分田といひ、國民は各自その田地を使用して収益を獲得するを許されて、生涯生活に安ずることを得たり。
かくて貧富の懸隔を一掃して、永久に持續の専權を絶たんとせり。しかして別に税法を制定し租税を租・庸・調の三類に分かち、これを國民一般に課して、國費を支辨することとせり。租は田地の収穫の一部を納めしめ、調は織物などの産物を納めしめ、庸は力役の代わりに布米を納めしむ。このほか新たに施設するところ頗る多かりしが、要は豪族の壟斷せし政權を中央に集めて天皇の親政とし、普天の下を率土の濱みな王臣・王土の實を擧ぐるに外ならず。世にこれを大化の改新と稱し、明治の維新と相竝びて、建國以来の一大革新となす。

これより漸次この改新の政治を實行せんとするに當たり、まづ國内を統一するの必要あり。よりて第三十七代斉明天皇の皇位に就きたまふや、中大兄皇子なほ皇太子として政治を助けたまへり、越國守阿倍比羅夫をして舟師を率いて日本海方面の蝦夷を降さしむ。この後も朝廷常にこれが懐柔に力めたまひたれば、皇威遠きに及びて王化次第に辺境に周かりき。されど朝鮮半島においては百濟・高麗の二國やうやく衰へて新羅獨りその勢を逞しうせしに、唐の勢力新たに半島に加ふるに及びて半島内の紛擾いよいよ甚だしく、新羅遂に唐の助けを借りて百濟を滅さんとするに到れり。
皇太子すなわち百濟の請により、これを援けたまはんとして、天皇を奉じて筑紫に親征したまひしに、たまたま天皇行宮に崩じたまひ、皇太子皇位を繼ぎたまいて第三十八代天智天皇と申したてまつる。半島にては、百濟の君臣相和せず、我の援軍も唐の水軍のために敗れて、將卒の忠勇なる働きもついに功を奏すること能はざりき。かくて百濟はついに滅び、ついで高麗もまた唐のために滅され、新羅全く半島を統一するに到れり。されば今や我が國が半島を保有するの困難なる時期に際し、我には内地の一日も忽にすべからざるものありて、長く海外のために國力を費やすの不利なる情勢にあり、天皇はこれを察したまいて、斷然半島との關係を斷ちたまへり。ここに於いて半島は全く我が國より離るるに至りしも、國内の政治はかへつて着々進捗しぬ。
天智天皇これより専ら御力を内治に用ひたまへり、まづ新都を交通に便利なる近江の大津に經營し、ここに遷りて儀禮を整へて即位の大典を擧げたまふ。よりて世にこれを近江の朝廷と申す。時に百濟亡命の民多く歸化せしかば、朝廷おもにこれを土地広闊にして人口稀薄なる東國に移住せしめ、學藝あるものは、特にこれを都の近地にとどめ、その學者を用ひて初めて學校を起こしたまへり。また天皇の御みづら作りたまへる漏刻を以て、参朝の時刻を正して朝臣を督勵し、日夕政務に勵みて綱紀を肅正したまひしが、中にも當時の學者を集め、大化以来の新政を整理して法令を撰集せしめたまひしは、いはゆる近江令として律令政治の基礎ここにはじめて確立しぬ。この間終始天皇を輔けたてまつりて法令・制度の設定にあづかりしは、かねて大化の改新に偉功樹てたる中臣鎌足なり。さればその病篤きに及び、天皇その第に親臨してこれを問はへたまひ、多年の勲功を賞して、大織冠を授け内大臣に拝し、また藤原の姓を賜へり。鎌足の薨後、これを大和多武峯に葬り、廟塔を建て木像を安置してこれを祭り、朝野の尊崇甚だ厚かりき。今の談判神社すなはちこれなり。ついで天皇も御病を得て、間もなく崩じたまふ。天皇夙に驕臣を滅して改新の鴻業を開き、不易の大憲を立てて内外の施政を整えたまひしかば、後世中興の英主として、永く國民の仰ぎたてまつるところとなる。
近江令の制定後、これが實施上の經験に徴し、また社會の進歩に伴ひてこれを修正するの必要あり、よりて第四十代天武天皇は近江令を改定したまひ、第四十一代持統天皇の御世にはじめてこれを頒布したりしが、ついで第四十二代文武天皇の立つに及び、更に忍壁親王・藤原不比等らに勅して、從来の法令を増損して新たに律令を撰定せしめ、紀元一千三百六十一年大寳元年に至りて完成せり。世にこれを大寳律令といふ。今に傳はれるものは、後これに多少の修正を加へたるもの(養老律令)なり。

この律令は、おもに唐制に準據し、これに本邦古来の風俗習慣を参酌して定めたるものなり。まず官制には、中央政府に神祇太政の二官あり、神祇官は神祇の祭祀を掌り、太政官は天下の政治を總理するところにして、太政大臣・左右大臣・大納言の諸官があり、その下に少納言局左右辨官局の三局ありて、少納言局は宮中の事務に當たり、左辨官局の下には中務・式部・治部・民部の四省、右辨官局の下には兵部・刑部・大蔵・宮内の四省あり、これらの八省いずれも數多の寮司を分かちて一切の政務を分掌せり。
地方はこれを畿内七道に大別し、その下に國・郡・里の行政區を置き、各々國司・郡司・里長をして民政を行はしむ。中にも西海道は國防・外交上の要衝にあるを以て、特に太宰府を置きてこれを管せしめたり。しかして國民が等しく田地を給せられて、生活の安定を得るとともに兵役・納税の義務を負うの制規もまたこの律令において整備せり。すなはち全國の民生まれて六歳に達すれば、人毎に一年間の食糧を収穫するに足るべき地積を標準として、男子には二段女子にはその三分の二の口分田を班給し、死すれば再び収公するものにて、六年毎に収受を行ふを常とす。田租は一段に稲二束二把を納めしめ、調は身に就き定率に從いて絹布・魚介など諸種の産物を出さしめ、庸は正丁一人毎年十日間夫役に服する代わり布二丈六尺を納めしむるの定めなり。兵制は國民皆兵の制にして、全國壮丁の三分の一を徴して兵士となし、これを諸國の軍團に配し、なほ京都及び西海の警備にも充てたり。京都の守備には、衞門府・左右衞士府・左右兵衞府の五衞府の設あり、後、變遷して左右近衞府左右兵衞府および左右衞門府の六衞府となりて後世に及べり。また學制には、京に大學、國に國學を置き、經學・法學・音韻・算道・書法などの分科ありて、その業を卒るものは試験によりて官吏に採用せらる。考試の成績によりて各々叙位任官に差等ありき。刑法もまた備り、刑罰には笞杖徒流死の五種あり、軽罪は國郡司の地方官にて取扱ふも、重罪に至りては太政官にてこれを決し、刑部省専らこれに當たる。罪状を數多きうちにも、國家・皇室・神祇・長者などに對する罪悪をもっとも重しとしてこれに厳罰を課せり。
かくてこの律令は朝廷施政の基本となりて、永く効力を失はざりしが、その規定するところは、ほぼ唐制と同じく、やや官僚偏重の嫌あり、教育も専ら官吏養成の機關にとどまり、有位者又は官吏の子弟に限りて入學を許し、未だ庶民の教育に及ばず。また刑法にも權貴に對する特典ありて、有位帯官の者の犯罪は常に刑罰を免るるが如き缺點少なしとせず。されど彼の繁冗なる官制を整理して、國情に合わせてこれを省略し、神祇・祭祀などに關することは、彼においては低き官省にてこれを取扱へるにかかはらず、我は特に神祇官を太政官の上に置く如きは、全くわが國體に基づきて、尊祖敬神の風習を参酌せしに外ならず。なほ孝子には特に兵役・課役を免じ、父祖に對する罪を最も重しとするが如きは、父祖を尊敬する國俗が、儒教の孝道の教えと合致するを以て、これを法制の上にあらはして道徳を按配せしなり。


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