第三 朝鮮半島との關係 文化の進歩
成務天皇の朝に國内の制度大いに定まりしかば、國勢はさらに伸長して朝鮮半島に及び。これより皇威遠く海外に輝き、大陸の文物續々わが國に傳来して、我が經濟・文化に至大の影響を與えたりき。朝鮮半島は最も我が國に近く、僅かに一衣帯水の地に過ぎざれば、實に唇歯の關係を有し、彼の形勢は直ちに我に波及するを常とす。古来半島の地はおよそ漢江を界として南北の二部に分かれ、北部は朝鮮と稱して、はじめ殷の王族箕氏これに王たりしが、後、漢の武帝に滅さる。南部にはもと馬韓辰韓辨韓の三韓ありて、各々小國に分かれたり。その後、辰韓の地に新羅國起こり、ついで高麗國興りて半島の北部を合わせたりしが、やがて高麗の同族南下して馬韓の地に百濟國を建てて、三國あたかも鼎立の状をなし、わが國にてはなおこれを三韓と稱せり。然るに辨韓の地に任那國あり、新羅・百濟の間に介在して國力微弱なれば、常に両強の壓迫に苦しみしが、遂に新羅と地を争い、崇神天皇の朝、使いを送りて救いを我が國に請ふ。朝議鹽乗津彦遣わしてこれを助けしむ。これすなわち任那日本府の起源にして、この後永く半島統治の中心となりぬ。
國内にては、日本武尊の西征東伐以来海内久しく太平にして人民各々その堵に安んずることを得しが、第十四代仲哀天皇の御世に至りて、九州の熊襲また叛するに至れり。ここに於いて天皇、神功皇后とともに親征したまいしに、未だ平らがざるうちに陣中に崩じたもう。皇后熊襲の叛服常なきは新羅の後援あるがためなれば、まず新羅を從えなば、熊襲の如きはおのずから平ぐべしと思召しされ、紀元八百六十年武内宿禰と謀りて、舟師を率いて新羅を討ち、忽ちこれを降したまえり。その後も朝廷たびたび將士を遣わして半島の地を經營せしめたれば、高麗・百濟もついに服し・三韓悉く我が屬國となりて、熊襲もまた永く叛かざるに至れり。かくて彼我ともに平安なるを得て、互いにその幸福を増進し、武庫の港(兵庫)には三韓諸國の亭館設けられ、彼の貢船は舳艫相ふくみて毎年ここに入港し、頗る繁榮を致しぬ。
三韓諸國は、はやく漢の代より支那大陸と交通して、その文物を採り、學藝開けたれば、我が屬國となるに及びて、しきりにこれを傳えて、我が文物の進歩を助けたりき。すなわち第十五代應神天皇の朝に、百濟より阿直岐・王仁の諸學者来朝し、皇子菟道稚郎子これを師として典籍を學び、深くその義理に通じたまいたれば、後、高麗より上がりたる表文に「高麗王教日本國」の語在りしを見て、その無禮なるを怒り、大いに使者を詰責したまへり。漢字の使用、漢籍の學習これより起こりしが、殊に孔子によりて大成せられたる儒教は、わが國民思想に多大の裨益を與へぬ。蓋し祖先を尊び忠義孝貞の道を盡くすは、わが國古来の習俗にして、儒教の説くところ多くこれと一致したればなり。この後第二十六代繼體天皇の御世に五經博士、第二十九代欽明天皇の御代に醫・易・暦の諸博士いづれも百濟より来たりて分番交代し、さらに第三十三代推古天皇の御世には、天文・地理の諸學もまた百濟より傳来して、學習の範圍おいおい広まりしが、この間において我が學問の發達に功ありしは、おもに三韓歸化人の子孫なり。中にも王仁の子孫は河内に住し、王仁についで来朝せる阿知使臣の子孫は大和に移住し、これを東西文氏と稱して、世々朝廷の記録を掌り、後世に至るまで専ら文事にたづさわり、我が文運に貢獻するところ多かりき。文教と共に工藝もまた彼より傳われり。應神天皇の朝、秦の始皇帝の後裔弓月君百二十七縣の民を率いて百濟より来朝し、その人々養蚕・紡織を能くせしかば、その氏族をば機の義を取りて秦氏といふ。また彼の漢人阿知使臣の来るや、同族從類なる十七縣の民を率いて歸化し、これまた機織りの術に巧みなるより、文の義を取りてその氏族を綾氏と稱す。なほ天皇は阿知使臣を支那江南地方に遣わして縫女・兄媛・弟媛・職工・呉織・漢織を招かしめ、百濟よりは錦織の職工を召させたまへり。大陸の織縫術これよりわが國に行われ、外来の鍛冶術・醸酒法などもこの頃よりはじまりて、大いに我が技藝の發達を促しぬ。
この盛世の後を承けて第十六代仁徳天皇、都を交通の至便なる難波に定めたまふ。まづ人民を富ましめんとて、いたく御みづから倹約を力めさせられ、數年の間全く租税を免除して萬民を慈みたまいしのみならず、さらに進みて民業を發達せしめんがために、常に御心を民政に用いたまへり。されば秦氏を諸國に分配して養蚕・紡織業の發達普及を圖らしめ、また難波の堀江を開鑿して潴水を海に通じ、茨田堤を修築して淀川の氾濫を防ぎ、この他數多の池溝を掘り田地の灌漑に便して、おおいに農業を奨勵したまひ、なほ橋を架し大道を設けて、交通の便を開きたまへり。ここに於いて荒地は變じて良田となり、人民往来の利便を得て、皆聖徳の厚きに感泣し、各々その業を樂しみぬ。
かくて上代産業の發達は第二十一代雄略天皇の御世に至りて極まれり。天皇深く御心を殖産に用ひたまひ、遠く神代において天照大神を助けたてまつりて、農事に盡くさせたまへる豊受大神を丹波より伊勢に迎へて皇大神宮に近くまつりたてまつれり。後世この宮を外宮といひ、皇大神宮を内宮と稱して、竝びあがめまつる。天皇また皇后をして親しく蚕を養はしめて範を世に示さしめたまひたれば、國民ますますこの業に勵みぬ。この頃産業に從事する歸化人の子孫もおひおひに増加し、秦氏の數のみにても既に一萬八千餘人に上りて、その業にいそしみたるに、朝廷更に職工・縫工を支那より招き、陶工・鞍工・畫工などをも百濟より召させたまひしかば、各種の工藝竝び興りて國富大いに加わり、遂に三蔵の竝立を見るに至れり。さきに三韓服屬以来、彼の貢獻多く、加ふるに國内の工業發達して、絹布の製出をおびただしきを以て齋蔵の外に内蔵を建てて、漢氏をしてこれを掌らしめ、初めて神物・官物を區別せしに、今やまた國家の財政ますます擴大せしにより更に大蔵を建てて秦氏をしてこれを掌らしめ、新たに朝廷の内帑と政府の用度とを區別したり。この後、蘇我満智をしてこの三蔵を總轄せしめたるより、他日その同族の隆盛を致すと共に、古来齋蔵を掌りし齋部氏は、かへってその勢力を失ふに至りぬ。
外来諸種の技藝は、わが固有の技術と調和して大いに文運の進歩を促ししが、佛教の傳来によりて更に社會に大なる影響を與えたり。佛教はもとインドの釋迦牟尼が若くして出家し、苦學難行の後遂に大道を悟り、あまねく衆生を教化せるに始まる。この教えはすでに後漢の代に支那に傳はり、下りて東晋のころ朝鮮半島に入りしかば、早くわが國にも傳流し、繼體天皇の朝に支那人司馬達等歸化して大和に住し、佛を祭りてその法を弘めんとせり。されど人々これを外國の神として信奉するものなかりしに、紀元一千二百十二年欽明天皇十三年に至り、百濟の聖明王使いを遣わして、金銅釋迦佛の像、幡蓋・經論などを獻じ、別に表を上りて盛んに佛陀の功徳を禮讃せり。
天皇は佛相の端厳佛法の微妙を喜びたまひしも、わが國古来専ら神祇の崇敬を習とせしことなれば、まづ佛陀禮拝の可否につきて民意を徴せんがために、これを群臣にはかりたまへり。時の大臣蘇我氏は、祖先以来三蔵統べて秦漢両氏を支配し、早くも外来の思想文物に接觸したるを以てて、稲目馬子の父子はこの新来の佛教を尊ぶべきことを主張し、大連物部尾輿守屋父子は神祇の祭祀を世業とせる中臣の鎌子及び勝海とともに、これに反對して、両派の争いはおいおい激烈となりぬ。かくて反對黨は蘇我氏のために滅せられて、佛教を大いに勢いを得、遂に推古天皇の御世に至りてひろく一般に流布したり。ことに聖徳太子は深くその教えを信奉し、經典を高麗の僧恵慈に習ひて、大いにその意義に通達し、朝堂に百官を集めて親しく佛典を講説せられしのみならず、その攻究にも外人の解釋に甘んぜず、法華維摩勝鬘の諸經に自ら注疏を施したまふ。ここにおいてはじめて日本的佛教の樹立を見、寺院の創立せらるるもの四十餘、僧尼の數も千三百餘人に上りて、最も興隆の域に達したりき。
この佛法の流布は、國民の思想に甚深なる感化を與へたり。まづ佛陀を尊信して無量無辺の福徳果報を得よすすめ、しきりに諸悪莫作諸善奉行を説きて、國民の信念道徳を高めたりしが、殊に過去現在未来の三世を立てて、輪廻應報の理を説きたるは、最も深く人心を感動をせしめたるところなり。さればこれより社會の事相を専らこの因果説によりて解釋し、人々現時の不幸も前世の宿報としてこれに満足しむしろ未来の幸福を欣求するが如き傾向を生じ、そはいままでの人情を一變して、長く民心を支配したりき。またその慈悲の教えは、おのづから人心をやはらげ、從来の狩猟に變わりて、薬狩とて原野に薬草を採ることも行われ、施薬療病悲田の諸院設けらるるなど諸種の慈善事業相ついで起こるに至れり。
また佛典には堂塔を建て佛像を作ることを功徳として、大いにこれを奨勵し、彼の建築彫刻の技師も来朝して、その造營を助け、また高麗の僧曇徴も紙・墨・繪具などの製法を傳へしより、美術工藝はために著しく進歩したり。殊に推古天皇の御世には、佛法興隆の詔下り、諸王・群臣競うて寺塔・佛像を作りて君父の冥福を祈れり。さきに聖徳太子の物部氏と争ふや、戦勝を四天王に祈り蘇我の馬子もまた誓願を發したれば、戦勝の後、太子は攝津に四天王寺を建てたまひ、馬子は大和の國飛鳥の地に法興寺を起こしたりしが、それらの建物はいづれも失はれ、今に依然として當時の舊態を存するものには、大和の法隆寺あり。同寺は推古天皇が太子とともに第三十一代用明天皇の御遺命を奉じて建立したまへるものにて、金堂・五重塔・中門などの壮麗なる伽藍巧みに配置せられて壮観を極め、金堂には太子の冥福のために司馬達等の孫鳥佛師の作りたる金銅釋迦三尊佛、および太子が父天皇の御為に同じく鳥佛師をして作らしめたまひしと傳うる金銅薬師三尊佛などの諸佛安置せらる。堂内の壁畫も頗る巧みを極め、東洋美術の精粋と稱せらる。また太子の薨後、王妃が數多の女官とともに太子の浄土に往生するさまを畫きたる下繪に、五色の色糸を以て施したまへる美麗なる刺繍の一部も今に傳はりて、いわゆる推古時代の精巧なる技術の面影を残せり。

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