第五 奈良時代の政治・文化
大寳律令既になり、典章全く備わりたれば、これよりこれを實施して、全國統一の制を布き、中央集權を堅むるに當たり、第四十三代元明天皇は、まづ唐制に倣いて貨幣制度を創始したまふ。古くは一般に物物交換行はれ、おもに稲・布などを交易の媒介物として用ひ来りしが、大化以後金銀銅の鑛物やうやく諸國より産出し、元明天皇の御世に至りて武蔵國秩父よりはじめて和銅を獻ぜしかば、これを祥瑞として年號を和銅と改め、鑄銭司を設けて、和同開珎なる銀銭及び銅銭を鑄造せしめられたり。されど民間にてはいまだ銭貨の便益を知らざりしかば、朝廷は銭を蓄へるものに位を授け、調・庸にも銭を以て代納するを許し、また富民をして米を路傍に賣らしめて、旅人をして自ら食料をたづさふるの勞を省かしむるなど、百方銭貨の通用奨勵したまひしを以て、ついには國民その便益を悟りて、盛んにこれを通用するに至りぬ。かくて第六十二代村上天皇の朝に至るまで、王權の盛んなる間は歴朝しばしば貨幣のを鑄造ありて、あまねく地方にも流通し、大いに商業の進歩を促ししと共に、京には東西の両市あり、地方の市も日を定めて開かれ、物品の賣買盛んに行はれて、經濟界の發達に一新氣運を與へたりき。
和銅元年天皇から奠都の旨を詔して、都城の經營に着手せしめ、紀元一千三百七十年和銅三年ほぼなりてここに遷りたまふ。蓋し上古の世は諸事簡素にして、都の規模も広大ならざれば、遷都も容易にして、おほむね御歴代都を改めたまふの慣例なりき。されど外に大陸と國交を結びて彼我使節の来往あり、内に中央集權を進めて政治機關を擴張するに及びては、帝都の美観、皇居の荘厳は最も緊急の事に屬せしに、一面社會の文化は著しく發達し、建築の術も頗る進歩したれば、ここに永久の帝都を設定して、壮麗なる宮殿を營まんとするに至れり。すでに孝徳天皇の御代のころより、唐制に倣ひて都城を計畫し来りしが、いまやその規模を擴張して、奈良に新都を完成したまふ。これを平城京といふ。平城京は唐の長安京の制に據れるものにて、今の奈良市の西に當たり、東西約四十町、南北約四十五町、周圍に羅城をめぐらして、南面に羅城門を設く。大内裏は北部にありて、その南門朱雀門より羅城門に通じる朱雀大路によりて京を左右に分かち、市街井然として未曾有の盛観を呈し、これより七代七十餘年間の帝都となれり。故にこの間を奈良時代と稱す。
この時代には官設の大學・國學の學業最も振るいて、明經(經學)・紀傳(歴史)・明法(律令)・算(數學)の四道専ら行はれ、いづれも漢籍によりて研究を遂げ、その業を卒れる大學生は式部省の選を受け、國學生は國司に選ばれて各々官吏に任用せらる。故に當時の政務はおおむねこれら官學の出身者によりて行はれたりしなり。また遣唐使の制度もこの頃いよいよ整ひて數多の留學生は漢學を傳へて文教を進めたり。當時遣唐使は四艘と定まり、大使以下の職員も備わり、從来の北方を迂回するの航路をやめて、博多より直ちに揚子江に航するの南路を取れり。遣唐使は風波覆没危險を冒して、おほむね歴朝派遣せられ、その使節の儀容温雅にして、君子國の誉れを揚げ、留學生の名聲を唐土に轟かしたるもの少なからず。吉備眞備・阿倍仲麻呂の如きは、その著しきものにて、眞備は多年彼の地に留學して、經史・衆藝に通じ、歸朝の後大學の助教となりて諸道を學生に授け、釋奠の義を整え、興學の功頗る多く、官も累進して遂に右大臣に上る。仲麻呂は詞藻最も秀で李白・王維など詩文の大家と相竝びて、文名を喧傳せられ、玄宗に徴せられて高官につきたりしが、故國思慕の懐を抱きて、不幸彼の土に没しぬ。
かく文運の進むにつれて、諸種の學問も興れり。これより先推古天皇の御代にはじめて支那大陸と國交を開き、對外關係の密接となるに及びては、わが國家に對する観念ますます強固となり、遂には日本なる國號も定まり、また國史の編修を見るに至れり。すでに聖徳太子は蘇我馬子と議して天皇記・國記などの記録を作りたまひしが、蘇我氏の滅亡に際し、それらの史書も焼失して傳はらず。よりて天武天皇の御代より、さらに國史の編修を計畫したまひしに、今や奈良時代に入り、漢文學の進歩すると共に、いよいよその事業の完成を告げぬ。元明天皇の御代に、太安萬侶勅を受けて稗田阿禮の記誦せる古傳により、神代より推古天皇まで歴世の事績を録して三巻とす。これを古事記いひ、記事おほむね質實にして、現存する史書の最も古きものなり。天皇また諸國に令し、國郡郷里の名は好字を選びて二字を用ひしむるとともに、各國の地誌を撰せしめらる。これはいはゆる風土記にして今に傳はれるものは、僅かに出雲・播磨・常陸・豊後・肥前の五國に過ぎず。ついで四十四代元正天皇の御時、舎人親王ら勅命を奉じて日本書紀三十巻を撰し、神代より持統天皇の朝までを録せしが、これより第六十代醍醐天皇の御代に至るまで、歴朝を相繼ぎて六國史の勅撰あり、いづれも漢文にて書かれ、さすが正史として整然たる編纂の體を備へたり。
漢文の巧みに綴られたるうへに、漢字を以て國語を記すの方法も既に行はれ、古事記の如きは、ままこの方法によりて記述せられたり。また從来口々に相傳へて記憶せられし古来の和歌もこの方法によりてこれを筆に上すを得るに至り、漢文學と竝びて和歌盛んに行はれ、有名なる歌人この前後に輩出せり。山部赤人は柿本人麻呂と歌仙として竝び稱せられ、しばしば諸國に遊びて名勝を探り、到る處風月を詠ぜざるなし。すなわちこれらの作をはじめ、おもに當代の和歌を集め、漢字の音訓を使用して書記したるものを萬葉集といひ、同じく有名なる歌人大伴の家持の撰するところなりとぞ。この集に収むるところの作者は、社會のあらゆる階級にわたり、詠歌は長歌・短歌などおよそ四千五百首に上り、歌調おおむね雄健にして、しかも韻致に富み、眞に奈良時代の詞華を發揚するのみならず、また當代の人情風俗を知るに好箇の資料たるべし。
かくてこの時代に於いて文化の最も開けたるは、第四十五代聖武天皇の御代なり。この時藤原氏より皇后を出すの例はじまり、不比等の女光明子皇后に立ちたまひ、天皇と共に篤く佛教を信仰したまふ。これより先、佛教は聖徳太子の尊信によりてやうやく興隆に向かひしが、さらに天武天皇の朝に諸國に詔して家毎に佛像をまつらしめ、ついで持統天皇は筑紫・陸奥の辺境にもこれを流布せしめたまひしかば、遂に全國に弘まり、聖武天皇の朝に至りて最も隆盛の域に達しぬ。天皇は御信仰のあまり、數多の寺塔・佛像を作らしめたまひ、中にも萬民のために災厄を攘ひ、天下の泰平國民の安穏を祈らしめんとて、國毎に僧尼の二寺を建てしめたまふ。これいわゆる國分寺にして大和の僧寺は東大寺、尼寺はすなはち法華寺なり。この東大寺内に特に宏壮なる大佛殿を建て、壮麗無比なる金銅盧舎那佛を安置したまひ、第四十六代孝謙天皇の御代に、その開眼供養を行ふに當たり、天皇は聖武上皇・光明皇太后とともに文武百官を率いて臨幸し、荘重厳肅なる儀式を擧げ、あらゆる歌舞・伎樂を演奏せしめたまひて、實に一代の盛観を呈したり。今の殿堂・佛像は再度の兵火にかかりて、當初の壮観を失ふところ少なからざるも、なほ木造の大建築として、世界第一と稱せらる。また地方の國分寺には當初の伽藍を存するものなきも、なほ「こくぶ」の地名にその遺跡を知り、壟圃草叢の間に堂塔の礎石を探りて、往時の宏壮なる規模を想見するに足るもの少なからず。
御歴代佛教を崇信せらること甚だ篤く、殊に聖武天皇、はじめて出家して三寳の奴と稱したまひ、孝謙天皇も相ついで佛門に入り、嘗て小塔百萬基を造らしめて、印版の經文を納め、これを諸大寺に寄せたまへる程なり。かかる折しも名僧の外國より来るもの多く、中にも唐僧鑑眞の如きは、しばしば風波の難を冒して東渡を企て、やうやく孝謙天皇の朝に来朝するや、直ちに勅命を受け、大佛の前に戒壇を設けて數多も人々に授戒せり。これ東大寺戒壇院の起こりにして、後には筑前の観音寺、下野の薬師寺とともに、天下の三戒壇と稱せられ、各々その地方の僧侶を養成しぬ。しかして一方教育制度の缺陷より、庶民は材幹あるも官學に入りて身を立つるの術なく、おほむね身を佛門に投じて社會上の地位を得んとしたれば、おのづから僧尼に優れたのものを出せり。當代民衆の教化に於いて最も功を奏せるを僧行基となす。行基は和泉の人にて、その教えを説くや、道俗これを慕ひて追随するもの千を以て數え、和尚来ると聞きては、巷里家を空しうし、争い集まりてこれを禮拝するに至り、時人尊びて菩薩と稱せりといふ。されば佛教はかかる内外の高僧によりてますます榮えに榮えたり。
ここに於いて佛教は當時の人々に偉大なる精神的感化を與へしのみならず、またその慈悲の教えは數多の社會事業を導きて、物質文明に寄與するところ少なからす。光明皇后は京都に悲田院を設けて貧民孤兒を収容し、また皇后宮織に施薬院を置き、諸國より薬草を集めて、貧民に施療せしめたまへり。その薬草は今に存して、皇后仁慈の御心をしのばしむ。和氣清麻呂の姉法均尼は棄兒を拾ひて八十三兒を養育し、いづれも朝廷より葛木首の姓氏を賜はれり。また行基の徒はその足跡全國に遍く、到る處寺を建て、橋を架し、道路を修め、地溝を掘り、堤防を築き、航路を開くなど、國利民福をはかりしの事功實に枚擧に遑あらず。蓋し行基ら徳望の高き、一度これらの事を起こすや遠近競い来りてその功を助け、日ならずして忽ち成就したりしなり。佛法の興隆につれて、美術・工藝の進歩驚くべきものあり。東大寺は朝廷の勅願寺として、藤原氏の氏寺たる興福寺と相竝びて名高く、この他新に起れる數多の寺院おほむね七堂伽藍の美観を具へ、建物の外部は多く朱塗りにして、内部の柱壁には悉く雄麗なる装飾を施し、ここに安置せられたる佛像には、金銅・木像の外、乾漆・塑造などあり、製作みな巧妙を極めて、端厳の風、微妙の相おのづから衆庶の渇仰を招けり。從ひて豊麗優美なる繪畫・彫刻の逸品にして、なほ現存するもの少なからざる中にも、東大寺の境内なる正倉院の寳庫に蔵せらるる御物は、その最も著しきものなり。この寳庫には、孝謙天皇が聖武天皇の御遺物を東大寺に寄せたまひたるものをはじめとして、珍寳の収めらるるもの樂器・織物・佛具・調度などおよそ三千餘點に及び。しかして校倉造りの寳庫は、よくこれら什寳の保存に適せしうへに、古来勅封として丁重に御物を寳蔵せしにより、千載後の今日、なほ完全に當時の面影をうかがうべく、いづれも卓抜なる意匠、精緻なる技巧・後人の容易に企て及ぶべからざるものあり、いはゆる天平時代の燦爛たる美術の光彩を放ちぬ。
かくて奈良時代は帝都一定して中央集權の實擧り、王權の最も振張したる一時期にして、文化また發達して一新生面を開き、國史の講究もはじめて行はれたり。日本書紀はわが國正史の祖にして、建國の體制を知るべければ、朝廷特にこれを重んじ、歴代天皇は諸卿ともに博士を召してしばしばこれを進講せしめたまひ、學校においても特にこれを講習せしめたりき。されど當時の文華は多く隋・唐の模倣に過ぎずして、未だ全く融和の域に進まず、しかも都鄙の文明はいたく懸隔して、未だ健實なる社會を形作らず、いはゆる青丹よし奈良の都は咲く花の匂うが如き盛況を呈し、都の士女は綾羅の唐衣麗はしく大路・小路を行き交ひ、悠々として世の太平洋を樂しみて、
 御民吾生ける験あり、天地の
  榮ゆるときにあへらく思へば。
と、大いに現實の生活を謳歌せり。これに反して、地方は一般に開けずして、交通も頗る不便を極めたりは、かの
 家にあれば笥に盛る飯を草枕
  旅にしあれば椎の葉に盛る。
の一首にても察せらるべし。
また當代とみに興隆せし佛教が幾多の新文明をもたらして、わが文化に燦然たる成果をあげしめたりしは明かなるも、造寺・造佛の熾なりしがために、やうやく財用の缺乏を来ししは、また疑ふべくもあらず。加ふるに僧侶が上下の尊信を一身に集めて、次第に勢力を増すに從い、往々政治に關與して當時の貴族と衝突し、しばしば紛亂を生じたり。中にも道鏡の如きは威權朝野を壓して、遂に非望を抱くに至りしに、忠烈なる和氣清麻呂はおのが一身の安危を忘れ、敢然起ちてこれを挫き、以て天壌無窮の皇運を扶翼したてまつりぬ。清麻呂の姉広虫(法均尼)は、第四十八代稱徳天皇に仕へて御信任頗る厚く、天皇に從ひて剃髪し、夙に崇高なる人格を以て稱せられしが、今や弟と心を一にして道鏡に當たり、姉弟ともに流竄の厄に遭いしも、間もなく京都に召還され、再び朝廷に奉仕して忠節を勵みたり。後、護王神社に両人を祭り今に至るまで國民その忠烈を欽慕して已まず。

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