第三十六 東洋の平和に對する我が國策
内治と共に歐米諸國との外交は、圓滑に進捗したりしに、たゞ東洋に於ては、朝鮮半島を中心としてしばしば波瀾あり。さきに征韓論起りてより、爾来幾多の曲折を經て、遂に韓國の併合に至りしが、この間我が外交の方針は一貫して動かず、終始東洋の平和を主義として國策を迭行したりき。
朝鮮との修交既に成るや、我が政府は、十三年京城に公使館を設け、公使花房義質をこゝに駐箚せしむ。時に朝鮮國王李煕外戚閔氏の援助によりて政を親裁し、鋭意國政の革新をはかり、金玉均らを我が國に派して制度・文物を視察せしめ、また我が士官を聘して、新式によりてその軍隊を訓練せしめたり。王の生父大院君らの守舊派はこれを喜ばず。
たまく閔氏の一族、軍人に給與する食料を私せるより、兵士の怨望せるに乗じ、大院君これを煽動せしかば、十五年七月軍兵俄に亂を起して、王宮に闖入して、我が士官を害し、また我が公使館を襲撃せり。義質ら纔かに虎口を脱して仁川に走り、やうやく英國船に投じて長崎に歸着せり。政府すなはち陸海軍を發し、義質を護衞して京城に赴かしめ、朝鮮政府に談判せしむ。時に大院君再び政權を握り、依違して我が要求に應ぜざりしかば、義質は決然濟物浦に引揚げて、國交はまさに破裂せんとせり。
然るに清國はなほ朝鮮を屬國視し、袁世凱・丁汝昌らをして、兵を率ゐて朝鮮に来らしめ、形勢の己に不利なるを見て、大院君を自國に伴なひ還らしめたり。こゝに於て、朝鮮政府の議忽ち一變し、俄に全權大臣李裕元を濟物浦に派して、義質と和議をはからしめ、暴徒の處罰、償金五十五萬圓の提供、謝罪使の特派、我が公使館警備兵駐在の數箇條を約せり。これを濟物浦條約といふ。
この條約により、朝鮮修信使朴泳孝は金玉均らを随へて来朝し、國書を捧呈して罪を謝し、我が國は竹添進一郎を公使として京城に駐箚せしめ、公使館警備の兵を派遣せり。金玉均は夙に我が國に遊び、やゝ我が國情に通ずるところあり、泳孝と共に意を傾けて我に信頼し、我が制度・文物にならひて國政を改め、以てその獨立を固くせんことをはかれり。これを獨立黨といふ。我もまた誠意を以てこれを扶け、さきの償金の中四十萬圓を返して改革の資に充てしむ。然るに國王の外戚閔氏らはこれに對抗し、舊習を守りて清國に隷屬せんとするより、これを事大黨といひ、清もまた袁世凱に大兵を附して、京城に入りてこれを援助せしめたり。
かくて両黨の軋轢常に絶えざりしに、たまたま清は、その封册を受くる安南王が佛國と戦ひて敗北したるより、これに干渉して、佛國と戦端を開きしが、遂に利あらず、從つてその朝鮮に於ける勢力もやゝ衰へて、またこれを顧みる暇なからんとす。獨立黨の士はこれに乗じて事を擧げ、十七年十二月玉均・泳孝と共に王宮に入り、國王を擁して事大黨の大臣らを殺害し、全く政權を掌握せり。時に我が公使竹添進一郎は國王の招に應じ、兵を率ゐて王宮を護衞せしが、袁世凱は事大黨を援け、大兵を以て王宮に迫り、王をその軍に迎へたれば、我が兵は公使館に引揚げたり。清兵は朝鮮兵と合して我が公使館を焼き、幾多の官民を殺傷せしかば、竹添公使は濟物浦に退き、泳孝・玉均の徒は續々難を我が國に避けぬ。政府すなはち外務卿井上馨を特派全權大使となし、京城に赴きて、翌年一月朝鮮全權大臣金宏集と交渉せしめ、朝鮮より謝罪使を發し、邦人を殺害せる兇徒を厳罰し、被害者撫恤金十一萬圓・公使館再築費二萬圓を支出すべきことを約して事牧る。これを京城條約といふ。
朝鮮との交渉は既に収りたるも、この變は清國と關係あれば、政府は宮内卿伊藤博文を特派全權大使として清國に遣はし、清兵の横暴を詰責し、且將来の事端を防がんことを交渉せしむ。博文天津に到りて彼の大臣李鴻章と會見して、數回討議を重ねたる末、十八年四月いはゆる天津條約を結び、爾後軍事教練のために両國より教官を朝鮮に派遣せず、両國の朝鮮駐在兵を撤去し、將来若し朝鮮に出兵の必要ある時は、まづ互に行文知照すべきことと定めたり。
この條約によりて、一旦日・清両國の朝鮮に於ける利害關係を解決したりしに、その後清國はなほ朝鮮を屬國現し、袁世凱を京城にとゞめて、私かに國政に干渉せしめ、事大黨はその後援を頼みて、常に我が國を蔑視せり。かくて二十二年には、米穀の集散地たる咸鏡道元山に於て、我が商人が多額の米穀買入を豫約せるにかゝはらず、道長官は俄に防穀令を布き、穀物の輸出を禁じて、我が商人に多大の損害を與へたりき。
かくて半島の政令は、全く事大黨の掌裡に歸し、内政ますます紊亂して、官吏の誅求に人民多年塗炭に苦しめり。時に東學黨なる一派あり、儒・佛・道三教の粋を集めたりと稱して徒黨を結び、明治二十七年四月の頃、官吏の暴戻を憤りて、亂を全羅道に起したりしに、所在これに呼應して蜂起するもの多く、官衙を壊ち、官吏を殺傷して、勢やうやく猖獗を極めたり。然るに、朝鮮政府はこれを鎭壓すること能はず、援を清國に求めしかば、清國は屬邦の難を救ふを名として、兵を牙山に出し、天津條約によりてこれを我に知照し来れり。我が政府は、その屬邦の名を斥け、我が居留民保護のために出兵することを清國に通牒し、當時賜暇歸朝せる公使大鳥圭介を急に歸任せしめ、ついで陸軍少將大島義昌に混成旅團の兵を率ゐしめて、直ちに京城に赴かしめたり。既にして、東學黨の徒は、日・清両國の出兵を恐れて、俄に鎭まりしが、我が政府は、清國に對し、この際協力して朝鮮の内政を改良し、永く東洋の平和を維持せんことを提案せしも、彼これに應ぜざりしかば、我は獨力朝鮮の改革を指導せんとす。清國はこれを妨害せんとし、我に撤兵を請求しながら、しきりに海陸の大兵を朝鮮に送りたれば、我が聯合艦隊も出動して、朝鮮の西海を制せり。七月二十五日豊島沖に於て、役の軍艦突然我が軍艦を砲撃しければ、我が艦隊直ちに應戦してこれを破り、ついで二十九日我が陸軍は朝鮮王の依嘱により、清兵を成歓驛に破り、牙山の本營を抜けり。これ實に海陸に於ける日清交戦の始とす。かくて八月一日いよいよ宣戦の大詔は渙發せられ、九月十五日かしこくも天皇大纛を廣島に進めたまひて、日夜親しく軍事を督したまひたれば、忠勇なる將士は家を忘れ身を捨てて奮戦し、士氣ますます振へり。ついで廣島に召集せられたる臨時帝國議會は、立ちどころに一億五千萬圓の軍費を可決し、國民の後援また盛にして、老若男女皆資を獻じ、擧國一致奉公の誠を致さんことを期せり。
大本營進転の當日、陸軍中將野津道貰は、平壌に集中せる清兵を包圍攻撃して、翌十六日これを陷れ、更にその翌日、聯合艦隊司令長官海軍中將伊東祐享は、敵の北洋艦隊と黄海に激戦して大いにこれを破り、我は一艦だも失はずして、敵の艦隊に大打撃を與へ、殆どその戦闘力を失はしめて、黄海の制海權を全く我が掌中に収めたり。
ついで司令官陸軍大將山縣有朋は、第一軍を率ゐて、長駆鴨緑江を渡りて満洲の野に入り九連・鳳凰柝木・海城の諸城を抜きて、所在敵を走らし、陸軍大將大山巌は、第二軍に將として遼東半島に上陸し、直ちに金州・大連を略し旅順口らの要塞を陷れ、更に山東半島に渡り、二十八年三月海軍と協力して・威海衞を占領し、敵の勇將丁汝昌を降しぬ。こゝに於て北洋艦隊全滅して、渤海の出入始めて安全なるを得たり。しかして第二軍の一部は北進して蓋平を略し、牛荘を抜き、第一軍は進みて營口を陷れ両軍合して三月遂に田庄臺を取りて、全く遼東半島を占領し、破竹の勢を以てまさに北京を衝かんとせり。また、別に南方に向へる陸海両軍の一支隊は、澎湖島を占領し、小松宮彰仁親王この月を以て征清大總督に任ぜられたまひ、戦局はますます擴大せんとせり。
清國政府は、連戦連敗、士氣沮喪せしかば、夙に和を譲ぜんと欲せしが、遂に李鴻章を遣はして、これを請はしむ。内閣總理大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光これと下關春帆樓に會見し、四月十七日いよいよ講和條約成立し、清國は朝鮮が獨立自主の國たるを確認し、遼東半島・臺灣及び澎湖島を我に割譲し、償金二億両(約三億圓)を出し、また新に揚子江沿岸の沙市・重慶及び蘇州・杭州の四市港を開くことを約せり。これを下關條約といふ。
然るゝに露國は我が遼東半島の領有を以て、己がかねてよりあ南下政策に不利なりとし、東洋の平和に、害あるを名として、獨・佛二國と共に我に半島の還附を勸告し来れり。政府は深く内外の情勢に顧みて、やむなくその勸告を容れて、遼東半島を清國に還附し、その代償金、三千萬両(約四千五百万圓)を収めて局を結べり。國民こぞつてこれを憤慨し、これより臥薪嘗膽、以て國力の充實に努めたり。
かくの如く條約の一部は成立せざりしも、朝鮮はこれより清國の抑壓を脱し、我が國の援助によりて、やうやくその獨立の實を擧げ、明治三十年國號を韓と改め、國王李煕新に皇帝の位に即きて、獨立國の軆面を備ふるに至れり。また臺灣我が領土となるや、海軍大將樺山資紀を臺灣總督に任じて、これを治めしめしが、清の留將唐景ッらは北部に、劉永福らは南部に在りて、我に反抗せり。北部は間もなく平ぎしも、臺南に據れる永福は、しきりに土民を煽動し、海陸の險隘を守りて勢甚だ猖獗を極めしかば、北白川宮能久親王近衞師團の兵を率ゐてこれを征したまひ、瘴煙蠻雨の間に転戦したまふこと數閲月占めに御病を獲て、かしこくも遂に薨じたまひしが、永福は力盡きて厦門に走り、二十九年四月全島始めて平定せり。こゝに於て三十年總督府官制發布せられ翌年兒玉源太郎總督に赴任して鋭意經營をはかりしより、治績大いに擧りて、各種の施設年を逐ひて備り、新附の島民あまねく皇化に浴するに至りぬ。
かくて清國の無力世に暴露しければ、歐洲の列強は、忽ちこれに乗じて各々その利權を獲得せんことを謀れり。殊にロシヤは、その東方經營策として、かねてシベリヤ横斷鐵道の竣工を急ぎしが、今や遼東半島の還附を周旋したる報酬として、明治二十九年清國に交渉して、シベリヤ鐵道に接續して、東清鐵道を満洲に敷設することを承諾せしめ、越えて三十一年、更に二十五箇年間旅順・大連背の一帯の地を租借し、東清鐵道の支線を南満洲に敷設し、その沿道に於ける銀山の採掘權を得たり。同年ドイツも、その宣教師が清國暴徒のために山東省にて害せられたるを口實として、山東省に於ける鐵道敷設・銀山採掘の權利と九十九箇年間の膠州灣租借權とを収めたり。フランスもまた、さきに清國と戦ひて安南を取り、安南鐵道を清國國境内に延長し、廣西・廣東地方に於ける銀山採掘權を豫約し、その勢力を南清に扶植せしが、三十二年更に廣州灣の九十九箇年間の租借とその鐵道敷設の要求を容れしめたり。こゝに於てイギリスも、極東に於ける勢力平均のため三十一年威海衞及び九龍半島の地を租借し、以てロシヤと對峙しその利權を擁護しぬ。
かくの如く歐洲列強が清國を壓迫すること甚だしきより、その國民の間にしだいに外人嫌忌の念廣まりしに、この氣勢を利用して、盛に排外思想を鼓吹して蜂起せしは義和團なり。義和團は、もと元の代に起れる白蓮教より出でたる一派にして、山東・河南の地方その徒の巣窟たり。かねて宗教的迷信を以て愚民を誘惑したりしが、三十二年國内に排外熱の高まるに乗じて俄に山東省に起り、保清滅洋の旗を翻して外人を排斥し、翌年遂に英國の宣教師をはじめ、幾多のキリスト教徒を殺害し、教曾堂を毀ちていよいよ猖獗を極めたり。當時これを團匪といふ。團匪、更に直隷省に進みて、天津の外國人居留地を攻撃し、また鐵道を破壊して、北京・天津間の連絡を紹ち、遂に北京城内に侵入せり。これより先、清廷にては康有為らの儒者をはじめ、憂國の士は、この外侮の時に當り、まづ諸制度を改め内政を刷新して、自國を強むべきの説を立て、しばしば徳宗皇帝に上奏し、皇帝これを納れて、着々改革を實施したりしが、端郡王ら保守派の大官はこれを喜ばず、西太后を擁して、康有為らの改革派を斥けて、全く政權を握りぬ。こゝに於て西太后・端郡王らは、密かに團匪を助けたるより、團匪はますます暴威を振ひ、遂に我が公使舘員杉山書記生を慘害せり。よりて、大沽沖に碇泊せる外國軍艦は、陸戦隊を上陸せしめて大沽砲臺を陷れたりしが、この時我が兵最も奮戦して、先登の名誉を博したり。かくて清國政府は、各國に對して開戦するの上諭を布告せしより、官兵團匪に加入して、北京め各國公使館を包圍攻撃し、遂にドイツ公使らを殺害するに至りしかば、外國公使館員及び居留民ら聯合して、義勇兵團を組織し、男女死を決して、辛うじてみづから衞れり。
時に我が政府より、救援のため急派せられたる陸軍少將福島安正の軍は、各國の軍と共に天津城を攻め、率先してこれを破りたり。ついで第五師團長陸軍中將山口素臣は、露・英・米・獨・佛・伊・墺諸國の軍と共に北京に進み、我が軍また聯合軍の中堅となりて、これを陷れ、列國公使館を重圍の中に救へり。ここに於て徳宗皇帝は西太后と共に城を出でて陜西省西安府に逃れ、騒亂始めて鎭定せり。この役我が兵の驍勇にして軍紀の厳肅なること聯合諸軍に冠たりしを以て、歐米諸國もますます驚歎しぬ。
清帝は慶親王をして李鴻章と共に講和の事に當らしめ、列國公使はしばしば曾して善後の策を講じ、遂に我が國は獨・墺・自・白・米・佛・英・伊・蘭・露の諸國と共に、講和條件を議定せり。これにより、清國は謝罪使を我が國及びドイツに派し、その暴徒を罰し、償金四億五千萬両(六億三千三百五十萬圓)を三十九箇年賦に支拂ふことなどを約し、列國は軍隊を撤去する旨を宣明して、始めて局を結びぬ。世にこれを北清事變といふ。
この事變の際、滴洲に駐屯せる清兵は團匪に應じて、在留の露國人を襲撃したれば、露國はこれを機とし、鐵道守備を名として、しきりに兵を満洲に送りて、その要所を占領せり。既にしで事變の鎭定するに及びても、露國はなほ兵を徹せざるのみならず、清國を脅して密約を締結し、満洲に於ける實權を握らんとするに至れり。こゝに於て我が國は英・米両國と共に清國に警告し、また強硬に露國に抗議して、その密約をやめしめたり。
されど露國の野心はなほ變るところなく、ますます勢力を満洲に扶植し、延いて韓國を壓迫して、我が國の安危にかかはるの形勢を示せり。また一面露國は西蔵に手を伸して、英領印度の方面にも危險を及す虞ありて、今や東洋の平和は頗る危殆に瀕せり。よりて我が國は、かねて東洋の平和に就きて所見を同じくせる英國と、三十五年一月同盟を結び、清・韓両國の獨立を維持して、その領土を保全し、また日英の一方が他國と交戦する場合には、一方は厳正中立を守り、若し二國以上と戦ふ時は、互に協同して事に當るべきことなどを約しぬ。
日英同盟の成るや、露國は急に譲歩し、三期に分ちて満洲より撤兵することを清國に約せり。しかして第一回の撤兵は實行したりしも三十六年に入りて、俄に態度を變じ、その約を履行せざるのみならず、新に東亞太守府を旅順に設け、アレキセーフ(Alexiev)をその太守として、極東に於ける文武の全權を委任し、海陸の軍備を擴大して、遂に北韓に迫り、龍巌浦を占領するに至れり。かくて、若し露國にして満洲を併呑せんか、韓國は絶えずその迫害を蒙り、極東の平和はたうてい期待すべからざるを以て、速かに彼を膺懲すべしとの論大いに民間に起れり。政府もまた、韓國・満洲に於ける日・露両國相互の利益を調和して、東洋の平和を鞏固にせんとし、まづ清・韓両國の獨立及び領土保全を尊重し、且清・韓両國に於ける各國の商工業のために機會均等の主義を保持し、露國は韓國に於ける我が國の優越なる利益を承認し、我が國は満洲に於ける鐵道經營に就き露國の特殊なる利益を認むるなど、すべて五箇の條件を提議せり。それよりしばしば折衝を重ねしが、我は終始誠意を以て速かに時局の解決に努めしも、彼は故らにその回答を遷延し、その間に、あるひは大兵を満洲地方に増遣し、あるひは有力なる軍艦を東洋に派遣して、ますます軍備を修め、武力を以て我を壓迫せんとせり。こゝに於て我が政府は、三十七年二月五日やむなく國交の斷絶を露國に通知し、海軍中將東郷平八郎は聯合艦隊司令長官として、その九日早くも敵艦を旅順港外に襲撃して、大いにこれを破り、また海軍少將瓜生外吉の引率せる分遣隊は、木越旅團の運送船を掩護して仁川に向ひ、揚陸の任務を終りたる後、同じく九日仁川港外に敵艦を撃破して、戦端こゝに開け、翌十日宣戦の大詔は下りぬ。
仁川に上陸せる木越旅團は、直ちに京城に入り平壌に進みたりしが、既にして陸軍大將黒木為驍フ統率せる第一軍は、鎭南浦に上陸して、順次平壌附近に會し、これより北進して鴨緑江岸の敵軍を撃破し、更に九連城・鳳凰城を抜きて、軍威大いに振ふ。また陸軍大將奥保鞏は第二軍を率ゐて、鹽大澳に上陸し、進みて金州城を陷れ、南山を奪ひて旅順の咽喉を扼し、更に得利寺の激戦に敵の大軍を破りて北進し、なほさきに大孤山より北進したる第四軍は、陸軍大將野津道貫これを統べて、柝木城を略し、三道竝び進みて、まさに大擧して遼陽に迫らんとせり。かくて戦線大いに擴大せるより、満洲軍總司令部編成せられ、總司令官陸軍大將元帥大山巌は總参謀長陸軍大將兒玉源太郎らと共に、来りて全軍を統べ、神籌鬼策をめぐらすこととなりぬ。しかして遼陽は敵の策源地として、あらゆる防禦設備を施し、敵將クロパトキン(Kuropatkin)全力を竭して固守せしに、我は第一軍を右翼、第二軍を左翼とし、第四軍を中央部隊として、南方より總攻撃を開始し、十日間に亙れる奮闘の後、九月遂にこれを陷れたり。クロパトキンは奉天に走り、その増援隊の到着を待ち、二十餘萬の大軍を率ゐて南下せしを、我が軍これを沙河に逆撃して、また大勝を得たり。
この間に海軍は絶えず旅順を攻撃し、まづ港口を閉塞して敵艦隊の出動を遮斷せんとはかり、令を下して決死隊を募りしに、これに應ぜるもの多く、いづれも意氣壮烈、血書してこれを請ふものあり。すなやち勇士を簡抜して度々閉塞を斷行し、廣瀬中佐らの戦死をはじめ、幾多の犠牲を拂ひたりしが、敵艦はその閉塞の間をくゞりて、時々港外に挺進し、我が艦隊と砲火を交へたり。中にも四月十三日港外の交戦に於て、敵の旗艦は我が機械水雷に觸れて轟沈し、太平洋艦隊司令長官マカローフ(Makarov)は幕僚と共に戦死しぬ。しかして港口の閉塞は三度敢行せられて、ほゞ目的を達し、遂にその附近一帯を封鎖するに至れり。
然るに、陸軍大將乃木希典第三軍を率ゐ来りて、旅順攻圍の任に當るや、その包圍着々進捗したるより、敵艦隊は永く港内に蟄居すること能はず、八月十日遂に我が封鎖を破りて脱出し、遠くウラヂボストックに到りてその艦隊に合せんと企てたり。我が艦隊黄海に追躡して、大いにこれを撃破し、悉く敵艦を四散せしめぬ。またこれより先、ウラヂボストック艦隊は遙かに旅順艦隊と聲息を通じ、しばしば我が近海に出没して、我が陸軍の輸送を妨害し、金州丸・常陸丸を襲ひて、悲愴なる最期を與へたりしが、今や旅順艦隊脱出の報を得て、直ちにその救援に出動せり。海軍中將上村彦之丞は第二艦隊を率ゐてこれを蔚山沖に撃破し、東洋の海上權全く我が手に歸したり。この時敵艦リューリク我が砲火のために火炎を起して、遂に沈没し、その兵多く海上に漂ひて、まさに溺死せんとせしを、我が兵これを救助して、六百餘人を収容しぬ。
爾来我が第三軍は、海軍と協力して、ますます旅順の要塞に迫りしが、天皇はその要塞内にある敵の、非戦闘員をして、鐵火の慘害を免れしめたまはんとして、仁慈の御旨を希典に下したまへり。希典すなはち書を敵の司令官ステッセル(Stoessel)に迭りて聖旨を傳へ、且開城を勸めしに、ステッセルこれを拒絶せしかば、全軍ひとしく總攻撃を開始せり。然るにこの要塞は、露國が多年巨資を投じ、天險を利用して築造せる金城鐵壁、實に難攻不落を以て天下に誇りしものなるが上に、敵將ステッセル死守して容易に抜く能はず。我が軍幾回となく總攻撃を強行し、幾多の犠牲を拂ひたりしが、中にも旅順の北面に當れる二〇三高地(爾霊山)は、遙かに軍港を俯瞰して敵艦を指點し得るの險要なれば、我が軍死を決して躍進突撃せしに、敵兵また固く守りて屈せず、攻守地を易ふること日に數次、彼我死傷算なく、實に死屍谷を埋むるの悪戦苦闘を續けたる後、十二月の初に及びて我が軍始めて確實にこれを占領したり。これより我が砲弾能く敵艦に命中して忽ちこれを滅し、またしきりに敵の堅壘に突撃してこれを陷れしかば、三十八年一月一日ステッセル遂に屈して、城を開きて降を請ふ。翌日天皇、ステッセルが祖國のために盡せし苦節を嘉して、武士の名誉を保たしむべきを望みたまひき。この日我が全權委員は、水師營に於て露國の委員と會して、開城規約を議し、聖旨を奉じて特に禮遇して、將校及び官吏に帯剣を許し、宣誓の上家族と共に本國に歸ることを許せり。ステッセル以下皆優渥なる天恩に感激し、相携へて歸國の途に就きぬ。
ここに於て、旅順の攻圍軍は北上して満洲軍に加り、別に陸軍大將川村景明の率ゐたる鴨緑江軍もまたこれに合し、總軍約四十萬、大山巌これを統率して、進みて奉天の敵に迫れり。敵將クロパトキンは約六十萬の大兵を擁して、こゝに連敗の恥を雪がんとし、露國皇帝の命を奉じて一歩もこの地より退かざるを誓ひて決死固守せり。我は鴨緑江軍を右翼に、第三軍を左翼とし、その間に第一・第四・第二軍を挟みて、三面より敵の全軍を包圍したるに、我が作戦計畫着々成功し、大激戦の後大いにこれを破り、三月十日遂に奉天を占領し、まもなく満洲軍總司令部奉天に入城せり。なほこれより敵を迫撃して、遠く昌圖を陷れたり。
これより先、露國は、バルチック(Baltic Sea)艦隊の精鋭を擧げて東洋の海上權を回復せんとして、第二太平洋艦隊を組織して遙かに東航せしめたり。聯合艦隊司令長官東郷平八郎は、敵の必ず對馬海峡を通過するを信じ、主力を鎭海方面に集めて、その海峡を守備せり。果して五月二十七日、哨艦信濃丸より敵艦見ゆとの信號あるや、平八郎は旗艦三笠に座乗して、四十餘隻の艦艇を指揮し、第一艦隊は東郷大將、第二艦隊は上村中將、第三艦隊は海軍中將片岡七郎各々司令長官として、それぞれ戦闘準備を整へ、敵艦を沖島附近に迎へて、一擧これを殲滅せんことを期せり。既にして三十八隻より成れる敵艦隊の近づき来るや、平八郎信號を旗艦に掲げて、全軍を激勵していはく「皇國の興廢此の一戦に在り、各員一層奮勵努力せよ」と。將士相見て踴躍し、決戦二晝夜に亙りて、全く敵を撃滅せり。この日本海海戦に於て、敵艦の轟沈せられしもの十九隻、捕獲せられしもの五隻、残艦いづれも戦闘カを失ひて、露國の海軍は殆ど全滅し、司令長官ロジェストウェンスキー(Rozhdestvensky)以下の幕僚は我が捕虜となり、しかも敵兵の戦死者四千名、捕虜六千名に對して、我が昇は僅かに死者百餘名、負傷者五百餘名に過ぎず、實に世界の海戦史上空前の大勝を博したりき。平八郎すなはち戦勝を奏上し、天皇は優渥なる勅語を賜ひて、その偉功を嘉賞したまひ、國民また歓喜して、全國到るところ萬歳を叫びて祝捷せり。なほこの戦闘中、第二艦隊に屬する磐手・八雲の乗組員は、まさに溺死せんとする多數の敵兵を救助して懇ろにこれをいたはり、假装巡洋艦佐渡丸の兵員が喇叭を吹奏して、まさに海底に沈み行く敵艦の最期を弔ひたるが如き、また東郷大將が、佐世保海軍病院に収容せるロジェストウェンスキーを訪ひて、禮を厚くしてこれを慰めたるが如き、國民博愛の精神は、ひとしく世界の感激するところなり。
奉天の大戦、日本海の決戦、共に我が勝利に歸するや、新に樺太派遣軍を編成し、陸軍中將原口兼濟を陸軍の司令官に、海軍中將片岡七郎を北遣艦隊の司令長官とす。我が軍すなはち進みて樺太の南部及び北部より同時に行動を開始して、忽ち同島を占領したり。
かくて戦局の大勢既に定まりたれば、米國大統領ルーズベルト(Roosevelt)は、日本海海戦の終結を機とし、両國の政府に講和を勸告せり。我が政府は素より平和克復を念とせしかば、直ちにその調停に應じ、外務大臣小村寿太郎・アメリカ合衆國駐箚公使高平小五郎を全權委員に任命し、露國全權委員ウイッテ(Witte)・ローゼン(Rosen)らとニューハムプシヤ州ポーツマス(Portsmouth)に會して、講和の議をはからしむ。相互會商を重ぬること十數回、反復討議の末、九月五日に至りて講和候約始めて成立せり。締結の條項すべて十五條、要は露國は、我が國が韓國に於ける政治・軍事・經濟上に卓絶なる利益を有することを承認し、將来我が國が韓國に於て必要なる措置を執るに當りて、これを阻礙干渉せざることを約し、また露國がかねて清國より得たる關東州の租借權と、長春以南の鐵道及びこれに屬せる炭坑などを我に譲與し、なほ樺太の北緯五十度以南を割譲し、且沿海洲の漁業權を我に與ふることを約して、始めて江戸時代以来の宿題を解決しぬ。こゝに於て天皇特に詔勅を賜ひ、なほ伊勢に行幸して、平和の克復を神宮に御親告あらせられたり。
平和の局既に結ばれて、海陸の出征軍は順次に凱旋し、三十八年十月二十三日神奈川沖に於て、百六十五隻の精鋭を擧げて、観艦式擧行せられ、また陸軍は翌年四月三十日青山練兵場に於て、凱旋全軍代表部隊の大観兵式行はれ、いづれも天皇の御親閲ありて未曾有の盛観を呈したりき。顧みれば、この役我は世界の強國と戦ひて大勝を博し、世界列國を驚歎せしめたるは、素より天皇の御稜威によれりといへども、また將士の忠勇と國民の後援と相俟て、擧國一致君國に盡したるがためなり。この役に當り、國民が増税の負擔に甘んじ、進んで募債に應じ、また出征軍人家族の慰問に全力を注ぎて後顧の憂を絶たしめたるが如き、いづれもその功績著しかりき。
ポーツマス條約によりて新領土となりたる樺太には、先に占領後三十八年八月設置したる民政署をば、四十年四月これを廢して、新に豊原に樺太廳を置き、内地人の移住を奨勵して、漁業・林業などの發達をはかれり。またかねてより日・露両國委員の測定せる両國境界線の劃定も完了し、爾来同島の拓殖は着々進捗しぬ。また租借地關東州には、三十九年都督府を設けて、その政務を管せしめ、旅順に鎭守府を置きて、その方面一帯の防備に當らしむ。なほ官民合同の組織により、南満洲鐵道株式會社を起して、都督府監督の下に、露國より譲り受けたる長春以南の鐵道及び鑛山などの經營に任ぜしめ、ついで大連を列國に開きて、我が門戸開放の主張を實行し、これらの經營は年と共に進みぬ。
かくて我が國の名聲は世界に廣まり、一躍して一等國の列に伍し、英・米・獨・佛・墺・伊・露などの諸國と互に特命全權大使を駐箚せしめ、列國との關係はますます密接となれり。殊に極東に利害關係を有する英・佛・露・米の諸國とは、更に協約を結び、覺書を交興して親交を重ね、東洋全局の平和を鞏固にし、我と唇歯の關係ある韓國とは、特に密接の度を加ふるに至れり。はじめ、我が國の露國と戦を開くや、三十七年日韓議定書を交換して、両國の利害共通の主義を固め、ついで協約を結びて、邦人を財務顧問となし、重要なる外交事務はあらかじめ我が國と協議せしめ、以て順次その政治の改善をはかりしが、やがて三十八年ポーツマス條約の成るや、我が政府は、いよいよ韓國の指導保護を完うせんがため、新に協約を結べり。すなはち統監府を京城に置きて、伊藤博文を統監に任じ、その指揮の下に、理事廳を京城・仁川・釜山などの開港場竝びに須要なる地に設け、韓國の外交權を我に収めたれば、韓國はこれより全く我が保護國となり、諸般の施設大いに刷新せられたり。然るに四十年に至り、韓帝李煕は、密使をオランダのハーグ(The Hague)に開かれたる萬國平和會譲に送りて、我が保護政治を脱せんことを謀りし事件より、遂に退位のやむなきに至り、皇太子李?位に即くに及びて、更に協約を擴張して、韓國施政の改善には、必ず統監の指揮を受け、法令の制定、重要なる行政處分の如きも、その承認を經るを要することとし、いよいよ保護の實を擧げたり。既にして我が皇太子嘉仁親王は親しく韓廷を訪ひたまひ、韓國皇太子は、我が國に留學せられ、両國の間係はますます親密を加へたりき。
かくの如く、韓國は統監の指導によりて多年の弊政しだいに改善せられたりしも、國内の物情なほ穏かならず、四十二年伊藤博文官令を帯びて露國に赴かんとする途次、ハルビンに於て、頑冥なる一韓人のために暗殺せられたるが如き事あり。人心やゝもすれば、その嚮ふところを誤ること少しとせず。こゝに於て韓國民中には、寧ろ日韓の合邦を望み、その建白書を同國政府に上るものあり。我が政府もまた韓國民の幸福と東洋永遠の平和とのため、併合の必要を認むるに至れり。
翌四十三年寺内正毅の統監となるや、政府の訓令を奉じて、韓國内閣總理大臣李完用と合同協議し、八月二十二日遂に韓國併合に關する條約を締結したり。これによりて、韓國皇帝は、その一切の統治權を我が天皇に譲りたてまつり、天皇はこれを受けて、全然韓國を我が國に併せたまふこととなり、二十九日詔書を下して、これを天下に宜したまひ、且併合條約を公布せしめたまふ。この日韓國皇帝もまたその民に勅して、爾後我が帝國の新政に服從して、幸福を享受すべきことを諭したまひ、併合の事全く成りぬ。
ここに於て、韓國をあらためて朝鮮と稱し、前韓國皇帝を册して李王、皇太子を王世子、太皇帝李煕を李太王と稱して、待つに皇族の禮を以てしたまへり。また朝鮮貴族令を制定して、公・侯・伯・子・男の五爵を定め、李家の懿親及びその大官にして勲功ありしものに授けて華族の禮遇を賜へり。またこの際、特に大赦及び租税減免の恩典を下し、半島を統治するため、統監を廢して新に朝鮮總督を置き、一切の政務を統轄し、兼ねて委任の範圍内に於て陸海軍を統率せしむ。總督の下には政務總監を置き、總務・内務・度支・農商工・司法の五部を監督せしめたり。また半島を十三道に別ちて道長官を置き、更に府・郡に分ちて府伊・郡守を置きて、地方の行政を掌らしむ。かくて寺内正毅始めて朝鮮總督に任ぜられ、地方官には朝鮮人をも交へ用ひて善政を布かしめ、また外に向つては、馬山浦を除きて從来の開港場を開放する外、更に新義州をも開きて、貿易の利便をはかるなど、半島の開發は年と共に進みたり。
かくの如くにして、明治維新以来一貫せる東洋平和の主義の達成せらると共に、天智天皇以来千有餘年の懸案は、始めて解決を告げたり。これより帝國自衞の途確立して、東洋の平和は永遠に保障せられ、久しく弊政に苦しみたる半島の民は、悉く帝國の臣民となりて、天皇の御仁澤に浴することとなりぬ。


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