第三十五 經濟及び文化の發達
立憲政體の確立、各種法典の編成施行、または條約の改正實施など、内治、外交の整備するに件なひ、我が國の經濟界も、また長足の進歩を遂げたりき。
まづ、通信・交通の機關は、その後ますます發達し、明治十年萬國郵便條約に加盟し、十二年萬國電信條約に加るに及び、わが國の郵便・電信はやうやく世界的となりて、事業とみに擴大せり。
また電話は、二十三年電話交換規則發布せられて、漸次全國各都市に普及しぬ。鐵道は、京濱鐵道開通以来、官設の外私設のものもおひおひ各地に敷設せられ、陸運の便いよいよ開くると共に、海運もまた逐年隆盛に赴けり。さきに岩崎彌太郎の創設せる三菱會社は、十八年共同運輸會社と合して日本郵船會社となり、この前後に大阪商船・東洋汽船の語會社も起り、内海は素より、遂には遠く航路を歐米・濠洲に開きて、運輸上に多大の利便を與ふるに至れり。
かくの如く通信・交通機關の發運すると共に、一方政府は、明治十年始めて内國勸業博覽會を東京に開きしより、爾後たびたび開催し、また各地に共進會を開きて産物を品評せしめなどして、殖産興業を奨勵せしかば、産業・貿易は大いに振興したり。農業に就きては、北海道をはじめ、全國荒地の開墾に努め、農蠶業を勵まして産額の増加をはかり、また特に工業に關しては、新規の企業を起して、舊来の面目を一新するに至れり。かつて西洋に於て、蒸氣機關及び紡績機などの發明ありて、從来の工業は忽ち大規模となり、産業界の革命を来したりしが、それら新機械の我が國に輸入せらるにつれて、政府まづ各種の大工場を立てて模範を示し、漸次これを民業に移したれば、製紙・紡績・染織・造船・精煉及び電氣・化學工業相ついで勃興し、從来の産業界はこゝに一變したりしなり。しかして、かく産業の發達せる上に、交通・金融の機關整頓したれば、内外の商業もまた大いに振興し、貿易もおひおひ隆盛に赴き、すべて經濟界は一段の進歩を見たりき。
財政に就きては、維新以来政府は、税制を統一改正し、また造幣局を大阪に設置して貨幣制度を創定實施して財界の整頓に努めたり。されど財政の缺乏を補はんがために、多數の紙幣を發行し、殊に西南の役には軍費の供用に紙幣を濫發するのやむを得ざるに至りしかば、これらの不換紙幣市場にあふれて、紙幣の價値はおのずから下落すると共に、物價は騰貴し、財政上の危機をはらみたりき。よりて、大蔵卿松方正義専らこれが整理處分に當り、力めて紙幣を銷却して正貨の蓄積に盡し、十五年十月より日本銀行を開業して、十八年より兌換券を發行せしめ、遂にその整理を了したれば、財界は始めて安定しぬ。この他、民間株式の銀行も續々あらはれ、各種の金融機關備りて、國力やうやく増進せり。
かゝる問に、諸種の文化も健全なる發達を遂げつゝあり。宗教に就きては、さきに江戸時代、寺院は幕府の厚き保護を受けしより、やゝもすれば僧侶の安逸を貪る傾ありて、まゝ儒者・神道家などに攻撃せられたりしに、明治維新に際し、忽ち復古の氣分社會にみなぎり、政府は神佛の混合を禁じて、鋭意わが神道を盛にせんとし、民間にも、わが國の神祇を祭りて、各々教義を立てたる神道の諸流相起るに及び、その勢に乗じて佛教を抑へ、甚だしきは、みだりに寺院を破り佛像を毀つものありき。されど、佛教の信仰は一般に衰へずして、國民の大多數はその信徒たるのみならず、増侶もいはゆる廢佛毀釋のためにかへつて安逸より目ざめ、なほ公然肉食妻帯を許されて、古来の積習を革め、やうやく社會の教化に盡すの趨勢となりぬ。またキリスト教も、外交の進むにつれ、開國進取の思潮に伴なひて、鎖國後永年の禁制より解かれたるも、なほこれを嫌忌するもの多かりしが、外國宣教師のしきりに慈恵の事棄を起して、熱心に布教するもの少からず、邦人にもはやくこれが傳道に從事するものあり。中にも新島嚢は、幕末海外渡航の禁未だ厳重なりし折、ひそかに渡米してキリスト教を研究し、明治の初歸朝して京都に同志社を建てて、神學の研究と傳道とに全力を傾注し、また各地方に於ける牧師の傳道に努むるもの少からずして、キリスト教も年を逐うて弘まりぬ。かくて神・佛・耶の三教竝び行はれて、互に相排撃し、演説に文筆に盛に攻撃論難をかはして、まゝ迫害を加ふることさへありしが、憲法の發布せらるゝに及び、信教の自由を許されたるより、永年の争はやみ、いづれも・圓満なる發達を見るに至りぬ。
宗教界の安定についで、教育の大方針もまた確立せり。さきに學制頒布以来、その遠大なる理想により、國民の普通教育は次第に普及し、帝國大學及び官・公・私立の各種の専門學校興りて、各々須要なる學術技藝を教授し、從来振はざりし實業教育・女子教育などもやうやく勃興せり。また政府は、十二年東京學士會院を創設して、碩學鴻儒を會員とせり。かくて教育の設備はいよいよ備りしも、やゝもすれば、西洋の文明に心酔して、我が國古来の忠孝仁義の道徳を軽んずるの傾向ありて、國民の思想は大いに動揺し、從つて教育の方針も確立せず、その主張は雑然として、適從するところを知らざるの様なれば、國民思想の問題は遂に地方長官會議の議に上るに至れり。こゝに於て、夙に大御心をこゝに寄せたまひし天皇は、大方針を立てて教育の準據を定めしめんとはからせられ、遂に二十三年十月三十日、内閣總理大臣山縣有朋・文部大臣芳川顯正を召して、親しく教育に關する勅語を賜へり。これわが皇祖皇宗の遺訓に基づきて、國民道徳の大本を定めたまへるものにて、教育の方針こゝに確立し、また動かざるに至りぬ。實にの勅語は、たゞに學校教育にとゞまらず、一般國民の日夜拳々服膺すベき一大聖訓なりとす。
また社會の革新につれて、新しき文藝もしだいに行はれたり。小説には、西洋の翻譯物まづあらはれ、殊に政治熱の盛なる頃とて矢野龍渓・末廣鐵腸などの政治小説最も世に歓迎せられ、外山正一らの新體詩も著しく人々の視聴をひけり。また音樂には、教育唱歌が從来の雅樂家によりて作り始められ、十三年に、國歌「君が代」の樂譜が、海軍省にて改定せらる。これと共に、洋樂も既に陸海軍の軍樂などに採用せられ、オルガン・ピヤノの音は教會堂・學校の一隅より響き始め、漸次普及の趨勢となりぬ。かくて各方面に新進の機運は生じ来りしも、徒に舊を捨てて新を競ふのあまり、わが固有の藝術を無視して、名畫・寳器を視ること殆ど塵芥にひとしく、これを捨ててまた顧みざるの風あり。ただ菊池容齋の徒が斬新なる庭史畫を大成して、やうやく繪畫の命脈を維持するにとゞまり、狩野芳崖・橋本雅邦の如き天才も、辛うじて餘技に口を糊するの状態なりき。されど米人フェノロサ(Fenollosa)をはじめ、外人のかゝる破壊状態をなげくもの多く、邦人もまた古来の繪畫・工藝の尊重せざるべからざるを自覺するに至り、折しも泰西の美術を研究して歸朝せる岡倉覺三、または九鬼隆一らの主唱により、二十年に東京美術學校設けられて、國風の技術を研究することとなり、わが美術はこゝに復活して、始めて正道に立返りぬ。
かゝる新進の風尚は、風俗の末にもあらはれ、家屋は煉瓦にて建造せられ、家具装飾も洋風を模擬するもの多く、洋食・洋服なども漸次都鄙に行はれて、舊来の生活様式を一變しぬ。されど、ひたすら洋風にならひて文明開化と稱し、すべて舊風を固陋として、わが風俗・習慣の長所をも顧みざるもの少からず、殊に鹿鳴館に内外人の集りて假装・舞踏に耽るの状態は、いたく世人の顰蹙を招き、これを非難する聲高く國粋保有の論とみに起れり。こゝに於て、また嘗来の事物を尊重するの風生じ、一時殆ど存續を危まれし能樂も復興し、歌舞伎芝居も興り、古河黙阿彌は劇作者として名高く、福地櫻痴梨園に入りて新なる劇作を試み、名優市川團十郎によりて特技の發揮せらるるありて、忽ち史劇の流行を見たり。殊に從来専ら土人に愛好せられし能樂・謡曲、またはおもに庶民の間に行はれし操・歌舞伎が共に・廣く社會に歓迎せられて、上下一般の娯樂に供せられ、中にも今までとかく士君子に蔑視せられし演劇が、遂に明治二十年に天覽の光榮を荷ふに至りしが如き、また以て時勢の變を知るべし。かくて諸種の文化は、各々新味を加えて、しかも古来の美點を損せず、漸次健全なる發達を遂げたりき。


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