第三十七 國運の進歩
外に世界の諸國と親交を重ぬると共に、内には平和の保障として、國防の事年を逐うて整備せり。さきに徴兵令を發布して、國民皆兵の制を布き、ついで明治十五年一月四日、天皇特に勅諭を陸海軍人に下して、軍人は忠節を盡すを本分とし、禮儀を正し、武勇を尚び、信義を重んじ、質素を旨とすべきの五事を示したまひ、しかしてこれを貫くに誠心を以てせよと諭したまふ。ここに於て軍人の守るところ明かとなり、軍隊教育の精神確立して、爾来陸海軍人の教育機關も漸次整頓進歩せり。これにつれて陸海の軍備も着着整ひ、陸軍に於ては、さきに鎭臺を師團と改め、七箇師團を置きたりしが、日清戦役の後、増して十三師團となし、日露戦役後は、更に十九師團に擴張せり。後、廢合整理して、今や近衞師團の外十六師國を置き、要地に各々要塞を設けたり。海軍は鎭守府より軍港・要港の設備も漸次整ひ、今や全國の陸上及び海面を三海軍區に分ち、各區に軍港を設けて、各々鎭守府を置けり。また軍艦も、西南役の當時には、僅かに十餘隻二萬噸に満たざりしに、日清・日露の二大役を經て次第に建造せられ、その後種々變遷ありて、今や七十餘隻七十餘萬噸となれり。しかして天皇は陸海軍を統帥したまひ、國民は満十七歳より満四十歳までの男子悉く兵役に服するの義務あり。なほ四十三年以来各地に在郷軍人會設けられ、國防に備へらるゝと共に、平生義勇奉公の精神を以て、社會公共の為に盡し、國防の實いよいよ擧れり。
温信・交通の機關は、國運の進歩に伴なひて發達せり。明治三十九年政府は鐵道國有の策を立てて、漸次私設のものを買収してその整理をはかり、鐵道院を置きてこれを管理せしめしが、後、鐵道省設けられて今日に至れり。また電氣鐵道も各地に増設せられ、自動車も輸入せられて、漸く都鄙に廣まり、陸運の便ますます開けぬ。これと共に海運も、日清・日露の両役を經てますます發達し、郵便・電信・電話は長足の進歩をなし、内外の運輸・通信の利便殆ど備らざるものなきに至れり。
かゝる間に、經濟界も頗る面目を改めたり。財政は、さきに兌換の制を實施せしより確實となりしが、たゞ金に乏しきを以て、金銀両本位制を取れるも、實は専ら銀を以て兌換し来りしに、銀の價は常に高下して、本位貨幣に不適當なるを免れず。然るに、日清役の償金として、多額の金貨の流入せしを機として、明治三十年斷然金本位制に改めて、貨幣制度に一大革新を與へたりき。また通信・交通機關の發達に伴なひて、産業・貿易は大いに振興したり。農業に就きては、各地に農學校・農事試験場など設けられて研究に資し、耕地整理は所在に行はれ、西洋の學理おひおひ應用せられて、改良の實次第に擧りしかば、品質の改善・産額の増加年を逐うて著しくなり、これと竝びて、林業・水産業・鑛業なども大いに振ひぬ。工業は、大規模のものしきりに各地に企畫せられて、ますます發達の機運に向ひ、後、工場法も實施せらるゝに至れり。かく産業の發達は、交通・金融機關の整備と相俟ちて、内外商業の振興を促がせしが、殊に改正條約の實施によりて、税權の回復せらるに及び、大いに貿易上の利便を得て、貿易港は各地に開かれ、貿易額は逐年著しき増進を示しぬ。
一面、文藝もまたやうやく興れり。恰も日清戦役の前後に至りて、正岡子規が蕪村と芭蕉の風體を加味して、俳句に一新派を開きて俳壇を革新し、その俳味につちかはれたる夏目漱石らは、後に清新なる作風を小説にあらはして名あり。また尾崎紅葉・幸田露伴は、元禄文學に基づきて、その長所を採りて傑作を小説界に出し、一時相竝びて文壇の明星と頌はる。なほ西洋文學もしきりに我が文學界に紹介せられ、坪内逍遙は英文學を、森鴎外はドイツ文學を祖述して、東西文學の融和を促したるの功また没すべからず。殊に逍遙は、さきに明治十八年小説の神髄を論じて、從来の人為・勸懲主義の小説を排して、性格・寫實主義を主張して、斯界に一新期を劃せしめたり。なほ二十六年更に史劇論を草して、在来の夢幻劇を斥けて性格を本とせる西洋劇をすゝめ、演劇の改良に指針を與へぬ。かくて西洋劇も歌舞伎と相竝びて發達し、洋樂も二十二年東京音樂學校の設立を機として、ますます發展の歩を進め、歌劇の類もおひおひに演ぜられ、遂に映畫なども一般の娯樂に供せらるゝに至りぬ。
美術・技藝も文學と相竝びて進歩し、日本畫はさきに國粋保存の思想にその頽勢を挽回し狩野・土佐圓山・南畫諸流の作者、各々在来の手法を研究すると共に、競うて洋畫の長所を採取して、斯界に新生面を開きたり。これに對して、洋畫は寧ろ不振の状を呈したりしに、黒田清輝・久米桂一郎ら久しく美術を佛國に學びて歸朝するや、その畫風を宣揚すると共に、世論を喚起して、二十九年遂に東京美術學校に洋畫科を新設せしめたるより、爾来新進の作家續出して、洋畫の氣勢とみに揚れり。されど彼我畫風の渾化は容易の業にあらざるも、たゞ彫刻は最も早く融和の實行はれ、高村光雲・竹内久一の名手最も木彫に秀で、洋風の彫塑また逐年精巧に赴けり。この他建築・染織の術に陶器・漆器の製作に、いづれも長足の進歩を遂げ、その間に、美術に關する諸種の團體起りて、帝國美術院展覽會・日本美術院展覽會をはじめ、幾多の展覽會が美術・技藝の發達を促進すると共に、廣く美術の趣味を社會に鼓吹したるの功頗る大なりき。
この間に大學の教育はますます進歩し、盛に西洋の學術を傳ふるのみならず、醫學をはじめ、諸種の科學は著しく振興して邦人の研究のかへつで彼を凌ぐものあり。しかして國威のいよいよ海外に發揚するにつれて、東洋諸國の留學生の我が國に来るもの多く、西洋人も、また研究のため来朝するもの少からず。また義務教育は普及充實して國民の智徳を高め、圖書・新聞・雑誌などの出版事業も年と共に進みて大いに學術の普及を助けたりき。
かくの如く文化は、日清・日露の戦役を界として、漸次躍進せしが、殊に日露の役後、國運の發展につれて、各種の産業特に振興したる上、戦後の經營として政治・軍事上の諸施設新に起りて財政は俄に膨脹し、役後の歳計はまさに役前の三倍を超えて、約六億圓の巨額に達し、國債もまた五億餘圓より約二十億圓に激増し、國民の負擔はますます重くなれり。然るに一方國民は累次の戦勝に誇りて、しだいに奢侈遊惰に赴き、浮華の風社會にみなぎらんとするの虞あり。天皇は探く時勢に軫念したまひ、四十一年十月十三日詔書(戊申詔書)を下し、上下心を一にして忠實業に服し、勤倹産を治めて、よろしく竪實の美風を養ひ、以て國運の發展に努むべきことを諭したまへり。
また近時社會の趨勢が貧富の懸隔を甚だしくし、無告の窮民少からず。かしこくも天皇これを憐みたまひ、四十四年御内帑金百五十萬圓を下して、貧民の施薬・救療の資に充てしめたまふ。時の内閣總埋大臣桂太郎聖旨を奉體して、濟生會を起せり。皇后また慈愛の御心深く盛時には御製の繃帯を陸海軍病院に下賜せられ、なほ彼我両國兵の負傷者に、ひとしく義眼・義手足を下賜して一視同仁の愛を垂れさせたまへるなど、常に救護事業を保護したまへり。民間にも、かねて孤兒養育・施療・感化院などの諸團體起りて、救濟・保護の途やうやく整ひぬ。かつて西南の役に際して起りし博愛社は、十九年我が政府の萬國赤十字條約に加盟せしより、日本赤十字社と改稱し、日清・日露の諸役には、彼我の傷病兵を救護して大いに活躍し、なほ奥村五百子の愛國婦人會を起したるをはじめ、博愛慈善の事業に心を用ふる婦人もあらはれき。
顧ふに、教百年来の武家政治崩壊して、忽ち明治維新の大業成り、爾来僅かに四十餘年の間に、人文内に就り國光外に輝き、驚くべき國運の進展を見たるは、一に天皇の御稜威によれりといへども、また忠良なる臣民の競うて奉公の誠を致し、以て國運の伸張を資けたるがためなり。中にも義勇報國の一念に國難に殉じたるもの少からず。されば天皇は、はやくも明治二年、幕末維新の際に忠死せる英霊を、東京九段坂上の招魂社に鎭祭せしめたまへり。後、十二年、靖國神社の社號を賜ひて、別格官幣社とし、幾多護國の神霊を合祀せられ、その大祭には辱くも天皇しばしばこゝに行幸したまふ。一死皇恩に殉じたるもの、この光榮に浴して、また餘榮ありといふべし。
かくて國勢隆々として揚り、前途洋々盡るところを知らざるの折、はれらずも四十五年七月天皇御不豫にわたらせらる。萬民御病状を拝承して、憂懼措くところを知らず、都鄙こぞりて、熱誠を籠めてひたすら御平癒を折りたてまつりしに、そのかひもなく三十日、寶算六十一歳を以て遂に崩御したまへり。國民悲痛の状實に言語に絶し、世界列國また天皇の御偉績を頌して、悼惜したてまつらざるはなかりき。はじめ天皇國家多事の時に當り、御年少の御身にて踐祚したまひしより、萬機を統べたまふこと四十六年、その間憲法を定めて御祖訓を明かにし、法典を頌ちて萬民を撫したまひ、内治を整へ外交を張りたまふ。こゝに於て、文教普及して不學の徒なく、武備整頓して國防ますます固く、領土大いに擴まり、國威世界に振ふに至れり。眞に天皇の盛徳鴻業は、古今に絶し東西に冠し、永く聖帝の御名を世界の歴史に留むべきなり。
天皇崩御の日、皇太子嘉仁親王直ちに踐祚したまふ。第百二十三代大正天皇にあらせらる。天皇すなはち先帝の定められし一世一元の制によりて、元を改め、この日以後を以て大正元年としたまひ、翌日宮中正殿に於て、朝見の儀を行はせられたり。八月先帝に御追號を奉りて明治天皇と申し、ついで九月十三日より御大葬の儀を行はせられしが、世界列國の元首は、皆名代の皇族または特派使節をして、来りてその儀に参列せしむ。かくて十五日の暁伏見桃山陵に斂めたてまつれり。霊柩宮城を出でます折、忠誠なる乃木大將夫妻は、その邸に自刃して明治天皇に殉じまつりぬ。
國民皆大喪に服し、先帝を哀慕したてまつれる涙未だ乾かざるに、昭憲皇太后また大正三年三月御病にかゝりたまひ、四月十一日遂に崩御あらせられ、萬民の悲歎譬ふるにものなし。やがて伏見桃山東陵に斂めたてまつれり。皇太后は御淑徳殊に高く、その深き御仁恵は遠く海外にまでうるほひ、また女學を興し婦徳を奨めたまひしなど、御坤徳のほど申すもかしこき極みなり。後、明治神宮を建てて、明治天皇及び昭憲皇太后を祭りたてまつり、こゝに参拝して敬慕の念をささぐるもの日々に絶えず。


前のページ  次のページ

付録の目次

目次に戻る

表紙に戻る