第481回 お勧めいただくご馳走

  
平成14年4月11日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
毎月14日に開いている真宗の基礎勉強会の資料を
つくっておりましたら、こんな文章に出会いました。


村上速水先生のお書きになったものです。

 「浄土真宗」を美味しいご馳走にたとえてみると、ご馳走の
材料が『大経』に説かれる「弥陀の本願」。


人間の健康を保持するために必要な栄養素がすべて材料の
中に含まれているように私たちの迷いを転じて悟りを開かせてくださる
働きのすべては、「弥陀の本願」の中にあります。 


 けれども、どれほど栄養に富んだ材料であっても、材料の
ままでは美味しくもなければ、ご馳走にもなりません。


  材料が巧みな料理人によって色々な形に料理され、
上手に味付けされたとき、はじめて美味しいご馳走となって、
私たちの食欲をそそってくれます。


 インド、中国、日本の七高僧といわれる方々は、それぞれの国、
それぞれの時代の人々の好みに応じて、「弥陀の本願」という
材料に美味しく味つけをしてくださった方、と考えたらよいでしょう。


出来上がった料理の形はそれぞれ変わっていても、材料は
みな同じ「弥陀の本願」です。


 さて、このようにして出来上がったご馳走の一つ一つを丹念に
賞味し、それをお膳の上に並べて、「さあ、みんな一緒に
いただこうではないか」とすすめて下さる方、それが親鸞聖人で
あるといったらよいと思います。


ですから、親鸞聖人は、「浄土真宗は私がつくり出した
教えではない。
与えられたものを有り難く頂戴し、人々にもすすめるばかりである」と
いわれるのが、親鸞聖人の立場なのです。


 「ことば」は「こころ」を伝えるものです。
言葉によらなくては心を伝えることはできません。
しかし、言葉を聞いても心をうけとることができなかったならば、
ほんとうに聞いたことにはなりません。


「きこえた」ということは、「心がうけとられた」ということです。

 親鸞聖人は法然上人の言葉を通して、久遠劫来の本願の
よび声を「ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)と
受け取られたのです。・・・・・


こういう文章です。

「ことば」は「こころ」を伝えるものです。言葉によらなくては
心を伝えることはできません。
南无阿弥陀仏のお念仏は言葉の教えです。


親鸞聖人が自分で味わい、自分で喜び、私にお勧めいただく
お念仏を聞かせていただく人生をおくらせていただきたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月18日に新しい内容に変わります。


   村上速水著 「親鸞教義とその背景」より

          

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