第1265回 むなしさを超える

 
平成29年 4月27日~

親鸞聖人の教えは、「信心」の教えと言われます。
その信心のことを端的に示すようなご和讃があります。

 本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし (高僧和讃-天親菩薩の和讃-)

「本願力にあいぬれば」ということは、「阿弥陀様の救済の願いに遇えたならば」
という意味です。それは、別の言葉で表現すれば、「阿弥陀様の願いを受けとめる
信心が獲得できたならば」と同じ意味なのです。

信心が獲得できたならば、「むなしくすぐるひとぞなき」と続きます。
ここに信心が、私たち人間にどのようなはたらき方をするかが述べられています。
それは、「むなしさ」を超えるというはたらきです。

 決して、人間の欲望を叶えるという意味ではありません。
だいたい、人間は、自分が最終的にどうなったら幸せなのかということを
知らない生き物です。普段は「ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ」と
思って生きてはいますが、それでは「最終的にどうなったら幸せなのか?」
と問われると、人間は答えることができません。
欲望は死ぬまで尽きませんから、もっともっとと望むものです。

 しかし、現代人は、モノの豊さだけでは究極的に幸せにはならない
ということを気づきはじめています。
むしろ、「みずみずしく生きたい」とか「意味のある人生を送りたい」とか
「人間らしく生きてゆきたい」という願いが圧倒的なのです。

それは、「人生を空しく終わりたくない」というこころの奥底からの
叫びなのではないでしょうか。

それは、貧しかろうが豊であろうが、もうそんなことはどうでもよい、
そんなことよりも、この人生に生きる意味があるのか?
空しくないと言い切れる意味があるのか?という悲鳴のようにも聞こえてくるのです。

 親鸞聖人は、そういう「むなしさ」を本当に超えてゆける道が「信心」
であると教えています。
私は、この「信心」は、「そうに違いないと信じ込もうとする心」ではなく、
むしろ「宇宙観であり、世界観であり、人間観である」と受け取っています。

比喩的に語れば、それは「仏様の眼」をいただくということであります。
人間が他人を見たり、社会を見たりする相対的な眼ではなく、
全宇宙を超越的に見つめる仏の眼を得ることだと思います。
もっと正確に語れば、全宇宙を超越的に見つめる仏の視線の中に
自分を感じられることだと思います。

「本願力にあいぬれば」ということは、その仏さまの視線の中に
自分を見出された感動が語られているのだと思います。
それは人間の価値基準のこころを、もはや宛にしないということです。
人間が意味があるとかないと決めているのは、すべて人間の価値基準の
範囲内のことです。

貧富とか、美醜とか、意味があるとかないとか、ひとがいいとか悪いとか、
仕事ができるとかできないとか、そういう価値基準の中で人間は、毎日、
右往左往しているのです。

 資本主義の世界は、役に立つものだけが生きやすい世界です。
以前こんな川柳に出会いました。「亭主殺すにゃ刃物はいらぬ、
役に立たぬと言えばよい」。実にブラックユーモアの効いた川柳です。

どうして、「役に立たぬ」という言葉が、それほどのインパクトをもっているのか
といえば、亭主そのものが、「役に立つものは意味があり、役に立たぬものは
意味がない」という価値基準の世界に住んでいるからなのです。


しかし人間は誰しも、やがて役に立たぬものとなってゆくのです。
「老いる」ということは、資本主義の世界では、排除されてしまうわけです。
そのとき、そういう価値基準のままに自分を見つめれば、自身のいのちに対して
「役に立たない」と烙印を押すことになってしまうのです。

ですから、人間の価値基準の世界を超えなければ、自分のいのちを
しっかりと受け止めることもできなくなるのです。

 この人間の価値基準の世界を超越した視点を得るということが「信心」の
世界であります。
人間は、心の奥底で、そういう相対的な価値の世界を超越したいと
願っているのです。ただ、その方途が分からずにいるのだと思います。

親鸞聖人の世界は、そんな現代人に向かって、本当に空しさを超えてゆける
世界のあることを教えているのです。

                武田 定光 師 因速寺住職 より


          


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