第1259回 優しい心遣いに応える言葉

 平成29年 3月 16日~

 お寺の法要やお家の法事などで、「浄土三部経」や「正信念仏偈・和讃」を

拝読しますが、そもそも、「おつとめする」ということは、何をしているの
でしょう。

このようにお尋ねすると、「それは〈聖典〉のご文を声に出して読んで
いるのです」とおっしゃるでしょう。

それでは、どのような思いで、私たちは拝読しているでしょう。

 毎日、忙しく生活していますと、「ちょっと。一息つきたいなと
思われることも、しばしばあるでしょう。
こうした時、身近にいらっしゃる方に、「お茶を入れてくれる?」と
頼んで、休憩されることがあると思います。

ところが、こちらの気持ちを察して、相手の方から「どうぞ」といって、

お茶を差し出されたら、思わず「ありがとう」とおっしゃるでしょう。

 どちらも何気ない会話のやりとりですが、頼んでからいただくことと、
その前に差し出されるのとでは、大きく意味が違ってきます。
依頼するということは、自分の思いを伝えて、お願いするということ
ですから、声をかけるまでは、気持ちは伝わっていないでしょう。

しかし、相手の方から声をかけられるということは、こちらの思いを
察してくださっているのですから、気持ちが通っているということです。
そうした時には、感謝の気持ちが湧き起こってくるでしょう。

 「おつとめする」ということについても、同じように考えることが
できるのです。

私たちが拝読している「聖典」は、「どうぞ(まかせておいてください)」
という「阿弥陀仏のおこころが綴られてあるもの」です。

ところが、「私が読んでいる」という思いから、「おつとめする」
ということは、「どうぞ」と声をかけていただいているのに、
「お茶をいれてくれる?」と頼んでいるようなものでしょう。

 阿弥陀仏は、煩悩に振り回されて、どうすることもできない
私たちを救い取ろうとして「すでに」はたらきかけていらっしゃいます。

ですから、「勤行(おつとめする)」ということは、いついかなるときも、
私たちのためにはたらきかけてくださっている阿弥陀仏を称え、
そのおこころのうちに救い取られていることに対して、
感謝の気持ちから行うもの、ということでしょう。

             なるほど浄土真宗 佐々木義英師著 本願寺出版社


          


           私も一言(伝言板)