第1258回 おつとめする意味

 平成29年 3月 9日~

 「おつとめ」をする際に用いる本の表紙をみると、
「日常勤行聖典」と書いてあります。

この題を意訳してみますと、(つねひごろから(おつとめ)する聖典」と
いう意味です。

 そして、その「聖典」という言葉は、「聖者(釈尊)のお説きになった
教えが記されているもの」ということを表しています。

 そうします釈尊は、そのご生涯をかけて、八万四千種類もの教えを
説いていらっしゃいますので、「聖典」にもそれだけの教えが
収められているということになります。

 しかしながら、私たちは、そのすべての教えを拝読している

わけではありません。
なぜなら、釈尊は、さまざまな教えを説いていらっしゃいますが、
それらを完全に理解して実践しなければならないとはおっしゃって

いないからです。

 釈尊の教えは、大きく二つに分けて窺うことができます。

ひとつは「自ら煩悩を断ち切って、さとりを開く」という教え、
もうひとつは「仏のはたらきによって、さとりを開く」という教えです。

 例えば、私たちの世界という此岸から、煩悩という大河を渡って、
さとりの世界である彼岸へ渡ろうとするとき、泳ぐことのできる人は
「自分の力で渡る」という方法を選ばれるでしょうし、泳ぐことの
できない人は、「船に乗って渡る」という方法を選ばれることでしょう。

釈尊は、さとりを開いていらっしやる仏ですから、煩悩という
大河を泳ぎ切る力を充分にそなえておられます。

しかし、だからといって、すべての人に対して、一様に、
「自分の力で渡る」という方法をお勧めになっているわけではありません。
一人ひとりの力量に応じて、その人に合った方法を説いておられるのです。

そうしたなかで、私たちには、「船に乗って渡る」ということを
勧めていただいているのです。

 私たちを乗せてくださるその「船」は、「煩悩という濁流にのまれて、
どうすることもできないものを、そのまま救い取って渡らせたい」と
願って、「(その願いの通りに)はたらきかけていらっしゃる阿弥陀仏」
であるのです。

 ですから、私たちにとっての「聖典」とは、阿弥陀仏について
説かれている「浄土三部経」、そのおこころを伝えようと記して
くださった七高僧の教え、そして、私たちの救われるべき道は
「浄土真宗」であるとあきらかに示してくださった親鸞聖人の教えが
記されているもの、ということなのです。

          なるほど浄土真宗 佐々木義英師著 本願寺出版社


          


           私も一言(伝言板)