第1257回 完全燃焼の生き方 ー 南無 ー

   平成29年 3月 2日~

 電車の中で、競馬新聞を開いていた人が、「また、負けやがって、
はずれた、はずれちゃったよ」とぽやく姿を見ました。

色々と事情はあったにせよ、最終的には自分の決断で馬券を
選んだのでしょう。

そうやって「はずした」場合でも、「はずれた」とまるで
被害者のようにいいます。

 自分の思い違い、見込み違いには指一本も触れようとしないのが
私たちです。だから、なかなか自分の責任を問いにする生き方は生まれません。
自分不在の人任せです。でも、人ごとではありません。


  おとせばこわれる茶碗が 今ここにあると気づけば
   茶碗のいのちが 輝いて拝めます(「いのち」)

と故東井義雄先生(19121991)は教えてくれます。

 茶碗のいのちとは、飲み物を容れてくださるはたらきということでしょう。
自分が茶碗を割っても、「割れた」と人ごとのようにいって、責任を

回避したがる私です。

この詩の茶碗のところに私たちのいのちを入れてみると、それまでの
ものの見方が百八十度ひっくり返りませんか。

 自分抜きで、人ごとという外向きだった見方が、さまざまなことを
ご縁に自分を通して我がことという内向きに見るように見方が
転じられることを、如来の回向(お恵み)による回心(心が転回する)といいます。

 一般に私たちは、「あんなことしなければ」と後で悔やみます。

しかし、如来回向に出会うと「あんなこと」と人の責任にしていた
自分の生き方が転じられます。

 仏教の涅槃という完全燃焼の生き方を教えられ、聞かせて
いただくと、「ああせざるをえない私だった」と我が身を
逃げ隠れしないで、ありのままに引き受けていく生き方が、
いつのまにか恵まれています。この恵まれた心を南無(頭が下がる)

といいます。

 南無は自分の都合をもとにして作り上げた心ではありません。
だから、相手を責めたり、対立することを超えた、本当に楽で
穏やかな生き方が恵まれるのです。

             いのち見えるとき  本多静芳師 法蔵館


          


           私も一言(伝言板)