第1250回 闇を破る

平成29年 1月12日~

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、
川端康成の名著『雪国』の冒頭です。
この作品は近代叙情文学の古典と評され、「雪国」は国境のトンネルを
へだてて現実世界のかなたに存在する、ともいわれています。


  わたしの住居は長い長い地下道を徒歩でぬけきった処です。
初めてこの道を通行する人は、程度の差こそあれ不安に脅えるようです。

最近はもちろん昼夜を問わず照明があって心配はないのですが、
わたしの少年時代にはその照明が灯らず真っ暗な地下道をおそるおそる
手さぐりで歩かなければならないことがしばしばありました。
あの恐怖心は脳裡に強く焼きついていて、過去を回想するたびによみがえってきます。


 ところで世間では「明けない夜はない」と言いますが、
仏教では「夜が明けない」すなわち闇夜の状態が続くために、
そのままではただ一度の人生を苦悩で明け暮れ、むなしく
終わってしまうと示されます。

そして、この閉ざされた闇を破ってくださるのが「智慧の光明はかりなし」と
たたえられる阿弥陀如来のはたらきです。


この智慧については天親菩薩の「浄土論」に、

仏慧明浄なること日のごとく、世の痴闇冥を除く(「註釈版聖典(七祖篇)』30頁)

とありますが日輪にもたとえられる仏国土の光明は
如来の智慧にもとづき、そのはたらきによって、初めて
わたしたちの愚痴の闇が除かれるとするのです。

そして親鸞聖人は闇について、曇鸞大師の『往生論註』を引かれて、

 たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。
 闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。
                (『教行信証』「註釈版聖典」299~300頁)
と記されています。


それは千年間、闇に閉ざされた部屋に少しでも光が入れば、
ただちに明るくなるようなものである。
闇が千年も部屋の中にあったのだから光が入っても
明るくならないとどうしていえようか、との意味です。

 果てしない過去からさ迷い、沈み続けるわたしたちを
すくいたいというのが阿弥陀如来の本願であり、その如来の
真実心すなわち智慧のはたらきをうけることによって、
ただちにすくわれる身と決まるのです。


『正像末和讃』には次のようにうたわれています。

 智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
 信心の智慧 なかりせば いかでか涅槃をさとらまし (『註釈版聖典』606頁)

こころして味わいたいところです。

                        清岡隆文師著 大慈悲を学ぶ 本願寺出版社刊より



          


           私も一言(伝言板)