第1233回 精いっぱい生きた いのち

 平成28年 9月15日~

 浄土真宗本願寺派では、この10月から、伝灯奉告法要がはじまります。
25代目の新しいご門主が法灯を継承された記念の法要です。
法要を前に、大谷光淳ご門主の「ありのままにひたむきに」という本が
発行されました。



その中に

いのちの長い短いや、お金を稼いだか
有名になったかは重要ではない
精いっぱい生きた“いのち”だったかだ 

との項目があり、そこにこんな
 文章がありました。


 人は、必ずしも年を取ってから死ぬわけではありません。
いつ死ぬのかは誰にもわからない。
世間一般には、ある程度長生きをされた方の死はよかった、子どもや
若くして亡くなられた人は早すぎる、あるいは本人も無念だったろう、
という言い方をする人がおられます。
ですが、それは違うのではないでしょうか。

 つまり、いのちは長い短いというものさしだけではかることは
できないと思うのです。

 最も大切なことは、そのいのちが終わったときに本人にとって、
あるいは本人の親しい家族の方から見て、精いっぱい生きた
いのちだったかどうか、ということだと思います。

 浄土真宗の教えをよりどころとされているお寺の方で、
早くに子どもさんを亡くされた方などから、「短いいのちで
かわいそうだった」とおっしゃるのをあまり聞きません。
「短かったけれど、本人も精いっぱい生きたし、まわりも
その生き方にとても大きな、いい意味で影響を受けた」という
受け止め方をされている人が多いような気がします。

 世間一般では、亡くなった人を評価できるものは、いのちの
長短やお金や名誉や地位というものでしかないと思うのです。
しかし、実際に亡くなった人の立場に立ったときに、
そういうものでしか評価されないとすると、やはりいのちが
なくなる瞬間に「よかったな」と思える人生とはならないと思います。

 少なくとも死を迎えるときに、自分がいままでの人生は
素晴らしいものであったと思えるような生き方、みなさんに
「ありがとう」と言って終えられるような人生でありたいものです。

 しかもその死というのは、今日かもしれないし、明日かもしれない。
しかし、いつ死を迎えたとしても、そのときに「よかったな」と
思えるような生き方の積み重ねが、いい生き方なのではないでしょうか。

 そもそも、それはまわりが評価するものではありません。

ただ、そういう生き方をされている人の場合は、まわりにも
その心持ちが伝わると思います。


・・・・・・とあります。 PHP研究所発行で、定価600円(税別)近くの
本屋さんで手に入ります。是非、お読みください。


         


           私も一言(伝言板)