第1217回 手の温もり

 平成28年 5月26日〜

こんな話を聞きました。

お爺さんもお父さんも真宗の有り難い学者さん、その三代目にあたる

ご講師から、聞いた話だということです。

お寺のお勤めに加えて 全国を忙しくご説法に回られていたお父さん、
親子で旅行したことは、生涯一度しかなかったとの話です。

それも成人してから、お寺の団体参拝の引率として、一緒に来てほしいと

父に頼まれて、初めて実現した親子の旅だったということです。

 宿に到着したのが,予定より早かったので、旅館は大慌て、
「どうか、先にお風呂に入ってください」と、食事の準備までは
まだまだ時間がかかる様子だったとのこと。

みんなそれぞれに、浴衣に着替えてお風呂に出かけ、残ったのは
父と息子の二人だけ。
父親は大の風呂嫌い、息子も負けずに風呂嫌い、しかたなく、冷蔵庫から
ビールを出して、二人で飲み始めたといいます。

それを見た宿の仲居さんは、「まだまだ時間がかかりますから
どうか、お風呂に入ってください。いいお湯ですよ」と。
ビールのつまみを頼もうと思っていたのに、忙しそうで言い出せず
親子で飲み交わしていたとのことです。

 しばらくすると、お父さんが 南無阿弥陀仏とお念仏。
会話は弾まず、つまみも無くただ飲むだけ、また父親が南無阿弥陀仏と

お念仏を称える。

身の置き場のない息子に、また南無阿弥陀仏と父親は お念仏。
「有り難いなーあ」と父親、なんのことなのか、息子には
よく理解できなかったといいます。

 連続しての念仏ではなく、時々 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
気づいたのは、走ってお膳を運ぶ、仲居さんの姿が見えた時だけ。

「どうして」と聞くと、「わからんかい」「・・・」「有り難いのう」

何段にも重ねたお膳をもった仲居さんの姿を、襖の隙間から見て、
父親は 南無阿弥陀仏と言う。
「わからん」というと、「よう見てみろ、お膳の一番下を持って
走っとるじゃないか、有り難いのう」


親鸞聖人の言葉に、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり・・・とあります。
また、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。・・・

自分こそ罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫、一番下、その自分が救われることの有り難さを、
仲居さんのお膳を持つ手の位置を見て、喜びを味わっておられたのでしょう。

まだまだ下には、もっと悪い者がいると考えていると、

一番下のお膳を持ち上げてくださっていることの有り難さが
味わうことは出来ないものでしょう。

そして、一番下に居る、この自分を救ってくださると味わえると、
持ち上げてくださる、その手の温もりも感じられてくるものだと、父親は

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を口にしていたのだろうと、
今、受け取れるようになったとのお話です。


         


           私も一言(伝言板)