サンド

    

   日本語で読む A (2/2)

         ご文章の続き

                「日本語で読む」つつき



 八万の法蔵章の大意


           (毎月 20日拝読の大意)
 
  釈尊がお説きになった教えをすべて知っている
としても、後世のことを知らないものは愚者であり、
たとえ文字一つ知らないとしても、浄土に往生する
いわれを知るものは、智者であるといいます。

ですから、浄土真宗では、たくさんの聖教を読んで
いろいろなことを知っていても、信心一つでたすかる
といういわれを知らなければ、むなしいことだと
思わなければなりません。


 親鸞聖人のお言葉にも、どんな人も,阿弥陀如来の
本願を信じなければ、決してたすかることはない、
とあります。

ですから、どういう人であろうと、自力にたよることを
やめて、おたすけくださいと二心なく深く阿弥陀如来を
信じおまかせするならば、十人は十人、百人は百人、
みな浄土に往生できることは、まったく疑いありません。
                     (五帖第二通)






  在家尼女房章の大意

       (毎月 21日に拝読の大意)

  在家の身でみ仏の教えを聞く女性は、
自力のはからいを捨て、一心に阿弥陀如来を
深くたのみ、後生をおたすけくださいとおまかせ
するならば、み仏はみなお救いくださると信じ、
疑いの心があってはなりません。

これが阿弥陀如来の他力本願ということです。


 そのように信心を得た後に、浄土に往生させて
いただくうれしさありがたさを思うなら、ただ
南無阿弥陀仏、南无阿弥陀仏と称えるべきです。
                (五帖第三通)





  男子も女人も章の大意

       (毎月 22日に拝読の大意)

  男も女も、罪の深いものたちは、諸仏の
お慈悲をたよりにしても、今は末法の世なので、
諸仏の力ではとても救われません。


 ところが、阿弥陀如来は、十悪五逆の悪人をも
救うというすぐれた願をおこし、み仏となられた
方です。
「私を深くたのんで二心なく信じる衆生をたすける
ことができなければ、私はさとりをひらかない」と
誓われた阿弥陀如来ですから、私たち衆生が
浄土に往生することは疑いありません。

ですから、いかに自分の罪が深くとも、一心に
阿弥陀如来におまかせして、おたすけくださいと
疑いなく信じたものは、十人は十人、百人は百人、
みな浄土に往生することはまちがいありません。


 このように信心が決定した後に、尊いことだと
思う心がおこったときは、時や所に関わらず、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏すべきです。

これを仏恩報謝の念仏と申すのです。 
                   (五帖第四通)






  一念大利章の大意

         (毎月 23日拝読の大意)

  阿弥陀如来を疑いなく信じるものに、
この上ない功徳が与えられることを、親鸞聖人は
ご和讃に、「五濁悪世の有情の 選択本願
信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は
行者の身にみてり」とお示しになっています。


 私たちは、一生、悪をつくって生きてゆかねば
ならない凡夫でありますが、一心に阿弥陀如来
に帰命し、後生をおたすけくださいとおまかせする
衆生を、かならずお救いくださることは
疑いありません。

このように疑いなく如来を信じる衆生に、はかり
しれない功徳をあたえてくださるから、過去・
現在・未来にわたる罪のさわりもただちに消えて,
浄土に生まれてさとりをひらく仲間に入るのです。

そのことをまたご和讃に、
「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 
 摂取不捨の利益ゆえ  等正覚にいたるなり」と
お示しになっています。

摂取不捨というのは、如来を信じる衆生を光明の中に
おさめとってお捨てにならないということです。


 このほかさまざまな教えがあっても、弥陀をたのむ
信心一つで浄土に生まれることを、決して疑っては
なりません。
                    (五帖第六通)






  一切の聖教の大意

           (毎月 24日拝読の大意)

 浄土真宗の信心というのは、南無阿弥陀仏の
六字のいわれを聞き開くことです。


 この南無阿弥陀仏の六字は、南無と帰命すれば、
ただちに阿弥陀仏がお救いになるということです。

ですから、南無という二字は帰命であって、衆生が
自力にたよることをやめ、阿弥陀仏におまかせすると
いうことであり、その衆生を阿弥陀仏がみなもらさず
お救いになるということです。


 このように、南無とおまかせする衆生を阿弥陀仏が
お救いになるという道理ですから、南無阿弥陀仏の
六字は、私たち衆生が平等に救われるいわれで
あるということがわかります。


 そこで、他力の信心を得るということも、
南無阿弥陀仏の六字のいわれを心得ると
いうことであり、一切の聖教も、ただ南無
阿弥陀仏の六字を信じさせるためのもので
あると思うべきです。
                   (五帖第九通)   






  御袖章の大意

          (毎月 25日拝読の大意)

  浄土真宗の信心のいわれをくわしく知りたいと
思う人は、ことさらに智慧も学識もいりません。

ただ自分は罪深いものであると知り、このような
ものまでもお救いくださるみ仏は、阿弥陀如来
だけであると信じて、ただひとすじに、このみ仏の
お袖にすがるような思いで、後生をおたすけ
くださいとおまかせするならば、み仏は深く
お喜びになり、八万四千の光明を放って、
その光明の中におさめとってくださいます。


 そのことを『観経』には、「光明遍照十方世界 
念仏衆生摂取不捨」と説かれています。
ですから、私が仏になることにはなんの心配も
ありません。

なんと世に超えすぐれた本願であり、なんと
ありがたい阿弥陀如来の光明でしょう。
この光明の縁に遇えなかったならば、はかり
しれない昔からつくり続けてきた罪のさわりも
決して消えることはありません。

いまこの光明のはたらきにより、如来のお育てを
いただき、他力の信心を得ることができました。
この信心も、自分の力でおこす信心ではなく、
まったく阿弥陀如来から与えられたものである
ことがはっきりとわかります。

そこで、他力の信心を得た人は、阿弥陀如来の
ご恩を心にかけ、常に仏恩報謝の念仏を
申すべきです。
                  (五帖第十二通)






無上甚深章の大

     (毎月 26日拝読の大意)

  南無阿弥陀仏の名号は、わずか六字ですから、
それほどのはたらきがあるとは思えませんが、
この六字の名号にはこの上ない深い功徳や
利益があり、その広大なことははかり知れません。

信心を得るということも、この六字にあるのであり、
それ以外にあるわけではありません。 


 善導大師は、南無阿弥陀仏の六字を釈して、
帰命と発願回向と行という三つのいわれを
示されました。

これは、私たちのような煩悩をそなえた身で
あっても、阿弥陀如来如来に帰命すれば、
かならずお救いくださるということを述べられた
ものです。

「帰命」とは、おたすけくださいとおまかせすることで
あり、「発願回向」とは二心なく阿弥陀如来に
おまかせする衆生に、この上ない功徳を与えて
くださることです。


 そのため、私たちがはかり知れない昔からつくり
続けてきた罪のさわりはことごとく消え、浄土に
生まれてさとりをひらく仲間に入ることができるので
あり、そこで南無阿弥陀仏の六字は、私たちが
浄土に往生するいわれをあらわしていると知る
ことができます。

このように信心とは、六字の名号のいわれをよく
心得ることをいうのです。
この六字のいわれを心得たものを他力の信心を
得た人というのです。

南無阿弥陀仏の六字には、このようなすぐれた
いわれがあるのですから、疑いなく深く信じる
べきです。
                (五帖第十三通)






一切女人章の大意

        (毎月 27日に拝読の大意)

 浄土に往生させていただくことを大切に思い、
み仏の教えを尊く思う心がある女性は、自力に
たよることをやめ、阿弥陀如来を深く信じて、
後生をおたすけくださいと一心にたのみ、おまかせ
するならば、浄土に往生することは疑いありません。


 このように心得た後は、如来がお救いくださる
ことのありがたさ、尊さを思って、寝てもさめても
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏する
ばかりです。
これを信心決定した念仏者というのです。
                   (五帖第十七通)






 当流聖人章の大意

        (毎月 28日拝読の大意)

 親鸞聖人のご教化では、浄土真宗の信心とは、
いかに自身の罪が深くとも、自力のはからいを捨て、
後生をおたすけくださいと一心に阿弥陀如来に
おまかせすることです。

そのものを、十人は十人、百人は百人、みなことごとく、
阿弥陀如来はお救いくださるのです。
このことはまったく疑いありません。


 このようによく心得た人を、信心の行者というのです。
信心を得た後に、自分が浄土に往生させていただく
ことのうれしさを思いだすときには、寝てもさめても、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏すべきです。
                     (五帖第十八通)






経釈明文章の大意

     (毎月 29日拝読の大意)

 浄土真宗の安心は、自力のはからいを捨て
いかに自身の罪が深くとも、その身をみ仏に
おまかせし、阿弥陀如来を一心にたのみ
たてまつることです。

そのようにおたすけくださいとおまかせする
衆生を、十人は十人、百人は百人、ことごとく
如来はお救いくださいます。

このことはまったく疑いありません。
このように信じるものを、信心の決定した人と
いうのです。


 このことを、経典や論釈の文には、
「一念発起住正定聚」とも、「平生業成の行人」
ともいわれています。

ですから阿弥陀如来を、一心に深くたのみ
たてまつることが肝要であると心得なければ
なりません。

そして信心を得た後は、み仏が私たちをお救い
くださるご恩の深いことを思って、いついかなる
ときも念仏すべきです。
              (五帖第二十一通)






当流勧化章の大意

         (毎月 30日拝読の大意)

  浄土真宗のみ教えをくわしく知って、浄土に
往生しようと思う人は、まず他力の信心を知ら
なければなりません。

他力の信心は、この罪深い私たちのような凡夫の
身が、たやすく浄土に生まれるための用意なのです。


 他力の信心とは、自力のはからいを捨て、
ただひとすじに阿弥陀如来に帰命して、おたすけ
くださいとおまかせすることであり、その信心が
おこるとき、かならず阿弥陀如来は摂取の光明を
放って、命のあるかぎりはその光明の中におさめ
とってくださるのです。
それが、私たちの往生が決定したすがたです。


 ですから南無阿弥陀仏とは、私たちが他力の
信心を得ているすがたであり、信心とは、南無
阿弥陀仏のいわれをあらわすすがたです。

私たちが他力の信心を決定すれば、浄土に往生
することはまったく疑いありません。


 ああ、なんとすぐれた阿弥陀如来の本願でしょう。
このみ仏のありがたいご恩をどのようにして
報じるかといえば、ただ寝てもさめても南無
阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて仏恩を
報じるのです。

その称えるこころは、み仏がお救いくださる
ありがたさ、尊さを思って、それを喜ぶこころで
あると思うべきです。
                (五帖第二十二通)






大聖世尊章の大意

  (31日に拝読のご文章の大意)

 人間のはかないようすをよくよく考えると、
命あるものはかならず死にいたり、盛んなものも
最後には衰えてしまうのが世のならいです。
それなのに、むだに日を過ごしているのは
嘆かわしいことです。


 釈尊から五逆十悪の提婆にいたるまで逃れる
ことができないのは、無常のことわりです。

私どもは、受けがたい人間界に生を受け、
聞きがたいみ仏の教えに遇うことができましたが、
今は末法の世ですから、自力の修行によっては
迷いの世界を出ることができず、ただ阿弥陀如来
の本願によるしかありません。

今、その教えに遇うことができたのですから、
浄土を願い如来をたのみ、信心を決定して
念仏を申すべきです。

しかし世間の人は、信心がなくても、南無阿弥陀仏
と念仏しさえすれば浄土往生ができるように思って
いますが、それは大きな心得違いです。


 南無阿弥陀仏の六字とは、阿弥陀如来をひたすら
たのみたてまつる人を、如来はお救いになるという
いわれをあらわされているのです。 

ですから自力にたよることをやめ、一心に阿弥陀
如来をたのみ、二心なくおまかせするならば、
如来はその人を光明を放っておさめとって
くださるのです。

このことを摂取の光益といい、不捨の誓益とも
いうのです。
このように阿弥陀如来の光明におさめとられて
いるのですから、この世の命が尽きたら、
ただちに浄土に往生することは疑いありません。

このほかに別の仏をたのみ、また他の行や
功徳をおさめても、なんのやくにもたちません。


 ああ、なんと尊くありがたい阿弥陀如来でしょう。
その広大なご恩に報じるには、ただ南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏と念仏して、仏恩を報じるばかりで
あると心得るべきです。
                    (三帖第四通)






  御命日章の大意


 今日は親鸞聖人のご命日ですから、参集の人々で、
報恩の気持ちを持たない人は少ないでしょう。
しかし真実信心を得ていないものが、ただ今日だけ
参詣すればいいと思っているのなら、聖人のお心には
沿いません。

けれども家にいて報恩のおつとめもしない人は、
いやいやながらでも参詣するのもよいでしょうか。

毎月二十八日にかならず参詣しようと思っている人は、
しっかりと心構えをし、信心をまだ決定していない人は、
このたびの参詣ではやく他力の信心を決定して、
浄土往生を定めるようにしてください。

そのようにしてこそ、報恩の気持ちにかない、また自らの
浄土往生も定まるというものです。

このことは善導大師の「自信教人信 難中転更難 
大悲伝普化 真成報仏恩」というお言葉にも合うものです。


 聖人が入滅なさって百余年を経過しますが、
今、目の前にご真影を拝することができ、またお声を直に
聞くことはできませんが、み教えはそのまま伝えられて
他力の信心は今も絶えることはありません。

このときに他力の信心を得なかったなら、自分は、如来の
お育てのご縁が実を結ばなかったと思わなければ
なりません。
それは嘆いてもあまりあることです。


 ところが、いま私たちは、本願の教えに遇いがたくして
遇うことができました。
これにすぎる喜びはありません。
まことに如来の本願を尊び、疑いなく信じるべきです。
このことにより、自力の心をひるがえして他力の信心を
いただく人は、まことに聖人のお心にかなう人です。
これこそ、聖人に対する報恩謝徳のこころがそなわった
ということです。
                      (三帖第九通)






  三首の詠歌章の大意

 秋も去り春も去って年月を重ね、いつのまにか
老いの身となってしまいました。

そのうちには風流な遊びをしたり、悲しいことや
苦しいこともあったのでしょうが、今はこれといって
思い出すこともなく、ただむなしく暮らして老いて
しまったのは悲しいことです。

今日まで命があったのですが、それも夢まぼろしの
ようであり、今となっては、生死の迷いから離れる
道を求めることしか願うべきものはありません。


 そこで、この私たちのようなものをお救いくださる、
阿弥陀如来の本願があるとけ聞けば、まことに
たのもしく思います。

この本願に疑いなく、ただひたすら帰命すれば、
そのとき命が終わっても、浄土往生は定まって
いるのです。
もしその命がのびたなら、生涯、仏恩報謝の念仏を
させていただくのです。
このことを平生業成というと聴聞しています。


 この決定の信心は、今も耳の底に残り、
なくなることはありません。
ただありがたいというだけでは、いいつくせない
ほどです。

そこで、阿弥陀如来の本願のありがたさ、尊さが
口をついて出るままに、三首の歌に詠みました。

第一首は信心決定のすがたを、第二首は入正定聚・
必至滅度の利益を、第三首は知恩報徳の思いを
詠んだものです。


 他力の信心を得たうえでは、このように歌を詠む
ことも仏恩を報じることになり、また、聞く人が如来の
お育てをいただいていれば、私と同じ気持ちで
あろうと思ったのです。

しかし私も、はや六十歳を越え、愚かな身であることも
かえりみず、教えられたままに法を説き、遠慮する
こともなく、ただ本願の尊さのあまりに、つたない歌を
筆にまかせて書きました。

後にこの歌を見る人はどうぞそしらないでください。
これは仏法をたたえ、ひろめる縁ともなることでしょう。
どうぞかたよった考えには、決してとらわれないでください。
                      (四帖第四通)






  御正忌章の大意

 親鸞聖人の御正忌にあたって報恩謝徳の思いから
参詣された人々のなかには、信心を得た人も得ていない
人もあるでしょうが、信心のことはなによりも大事なことです。

というのは、信心を決定しなければ、このたびの浄土
往生は定まらないからです。

ですから信心を得ていない人はただちに信心を決定
してください。


 人間界は無常の世界であり、浄土は常住の国
ですから、無常の人間界を離れて、常住の浄土を
願わなければなりません。
それで、浄土真宗においては、信心がなによりも
大事であるということを知らなければなりません。

ただちに信心を決定して浄土往生を願うべきです。
世間の人は信心がなくても、ただ念仏さえしていれば
浄土に生まれるように思っていますが、それは
おおいに疑わしいことです。


 他力の信心を得るということは、南無阿弥陀仏の
六字のいわれをよく心得ることであり、このことを
信心が決定するというのです。

信心とは、経典には、
「聞其名号信心歓喜」と説かれています。

善導大師は、
「南無というは帰命、
 またこれ発願回向の義なり。
 阿弥陀仏というは、すなわちその行」と
釈くしておられます。

「南無」とは、自力にたよることをやめ、疑いなく、
一心に阿弥陀如来をたのみおまかせすることであり、
「阿弥陀仏」とは、一心に阿弥陀如来をたのみたて
まつる衆生をお救いくださることです。

このように南無阿弥陀仏のいわれを心得ることを、
信心を得るというのであり、このように心得ている人を、
他力の信心を得た念仏の行者というのです。
                     (五帖第十一通)






  白骨章の大意

 人の世のはかないようすをよくよく考えてみますと、
この世はまぼろしのような一生です。
一万年も生きた人がいるなどと聞いたことはありません。

人の一生はすぐに過ぎてしまうのです。
今、いったいだれが百年の命を保つことなど
できるでしょうか。
 

 私が先か、人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、
人の命の尽きる後先は絶え間のないものです。
朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となって
しまうような身です。

無常の風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、
一つの息はながく絶えて、元気な顔もたちまち美しい
すがたを失ってしまいます。

そうなってしまえば、家族が集まって嘆き悲しんでも、
どうしようもありません。


 そのままにしてはおけないので、野辺のおくりをし、
荼毘にふして煙となってしまうと、ただ白骨だけが
残るのです。
それはもう言葉にもいい尽くせない悲しみです。


 人の世ははかないことは、老若にかかわらない
ことですから、だれもみな後世の浄土往生という
もっとも大事なことをこころにかけて、阿弥陀如来を
深くたのみたてまつって、念仏しなければなりません。
                    (五帖第十六通)



       ご文章  終




 聖人一流章の大意( 1日・5帖10通」)

 出家発心章の大意( 2 ・ 1 ・ 2 )

 猟すなどり章の大意( 3 ・ 1 ・ 3 )

 雪 中 章 の大意( 4 ・ 1 ・ 5 )

 睡 眠 章 の大意( 5 ・ 1 ・ 6 )

 吉崎建立章の大意( 6 ・ 1 ・ 8 )

 此方十劫邪義章の大意( 7 ・1 ・13 )

 横截五悪趣章の大意( 8 ・ 2 ・ 4 )

 珠 数 章 の大意 ( 9 ・ 2 ・ 5 )

 易住無人章の大意 (10 ・ 2 ・ 7 )
 五重の義章の大意 (11日・2帖11通)

 唯能常称章の大意 (12日・3 ・ 6 )

 いまの世章の大意 (13日・4 ・ 10)

 機法一体章の大意 (14日・4 ・ 11)

 毎月両度章の大意 (15日・4 ・ 12)

 信心獲得章の大意 (16日・5 ・  5)

 一流安心章の大意 (17日・4 ・ 14)

 大坂建立章の大意 (18日・4 ・ 15)

 末代無智章の大意 (19日・5 ・  1)

 八万の法蔵章の大意(20日・5 ・  2)

 在家尼女房章の大意 (21日・5 ・  3

 男子も女子も章の大意(22・5 ・  4)

 一念大利章の大意 (23日・5 ・  6)

 一切の聖教章の大意(24日・5 ・  9)

 御 袖 章 の大意 (25日・5 ・ 12

 無上甚深章の大意 (26日・5 ・ 13

 一切女人章の大意 (27日・5 ・ 17)

 当流聖人章の大意 (28日・5 ・ 18)

 経釈明文章の大意 (29日・5 ・ 21)

 当流勧化章の大意 (30日・5 ・ 22)

 大聖世尊章の大意 (31日・3 ・  4)

 
御命日章 の大意 (     3 ・  9)

 三首の詠歌章の大意(    4 ・  4)

 御正忌章の大意  (     5 ・ 11)

 白 骨 章 の大意 (     5 ・ 16)  





 日本語で読む@(前頁)トップへ


 日本語で読む A
  (この頁) トップへ




このホームページ内容一覧表へ

    


「御文章ひらがな版・拝読のために」から
          (平成11年発行・本願寺出版社)