第1174回 有ればあったで

 平成27年 7月30日〜

一般的に現世の利益といえば、私たちのさまざまな願いを
神仏にお願いすることによって叶えてもらう、そういう中に
現世の利益が得られたと受けとめられがちです。

しかしながら、私たちの願望というものは、人によっても

その内容はさまざまですし、また同じ人であっても
一つの願望が満たされれば、それで終わりかというと決して
そうではありません。

次から次へと新たな願望が起こってくる、すなわち際限が
ないわけです。『大経』に、

有無(うむ)同然(どうねん)にして、憂思(うし)まさに等し。
屏営(びょうよう)として愁苦(しゅうく)し、
(おもい)(かさね)ね、(おもんばか)を積みて、
〔欲〕心のために走り使(つか)はれて、安き時あることなし。


田あれば田に(うれ)へ、(いえ)あれば(いえ)(うれ)ふ。
田なければ、また憂へて田あらんことを(おも)ふ。
宅なければまた(うれ)へて宅あらんことを欲ふ。
                (『註釈版』五四〜五五頁)

と説かれ、「有ればあったで、無ければなかったで、
いずれも悩みは同じことである。

その心はいつも不安におののき、過去を念い未来を案じては、
欲望の心のために惑わされて安らかな時などあることはない。

ちょうど、田畑・家を持つ者は、それを失わないように努め
逆に田畑・それを得るように求めるようなものである」と

述べられます。有っても無くても、その悩みは同じことであると
いうのが、欲望の心に惑わされた私たちの現実の姿です。

 したがって、私たちの願望が叶うということが、ただちに
無量の利益を意味するものではないことになります。
むしろ、それによって悩みが増すということさえあります。

無量の利益とは、有るとか無いとかに執(とら)われず、有ればあったで
無ければなかったで、それをそのまま受け容れられる心が
具わることではないでしょうか。

もし、願望が叶えられて得られる利益であったならば、
「無上」とか「広大」という表現はされないはずです。
それでは、「無上」とか「広大」といわれる利益は、
一体どのような利益をいうのでしょうか。

    本願寺出版社 白川晴顕師著 妙好人のことば 信心とその利益 より

         


           私も一言(伝言板)