第1119回 見えぬものでもあるんだよ  ~昼のお星は眼にみえぬ~

 平成26年 7月3日~

こんな文章に出あいました。
拝読 浄土真宗のみ教え」の味わいを解説していただいた文章です。
その途中からですが、

金子みすゝさん(190330)は、
「昼のお星は眼にみえぬ 見えぬけれどもあるんだよ 
  見えぬものでもあるんだよ」 (『星とたんぽぽ』)と詠まれています。

 阿弥陀如来のご信心をいただき、お念仏を申しつつ生涯を終えられた人のいのちは、
死んだらしまいのいのちではありません。
阿弥陀如来の本願力によってお浄土に往生され、さとりを開かれて仏となられたのです。


仏は自分一人の閉ざされたよろこびの世界にジッとしてはおられません。
多くの人々に真実のよろこびを施そうと限りのない大きなお慈悲の心をおこされます。
「慈」とは迷っているものに対して真実の楽を与え、「悲」は苦しみを抜き
除いていこうとする心です。


そのために必ず人間世界(五濁悪世)に還ってこられて活動をされます。
そして「お金さえあれば ・・・学問、地位、名誉さえあれば・・・」と慌ただしく
日を重ねて、仏縁の少ない私に対して、今現にはたらきかけていただいているのです。

それは自分の耳や目では認識することはできません。

 「抱かれて ありとも知らず おろかにも
    われ反抗す 大いなる御手に」    (九條武子夫人)

 学生時代、先生が「人間は幸せな時にお念仏に出あうことができたなら一番理想的です。
ところが順調な生活、人生の登り坂の時には仏縁を結ぶことが難しい。
愛する人、かけがえのない人との別離などの悲しみや苦しみがご縁となることが多い。
このご縁を大切にしてほしい」という趣旨のお話をされました。

 皆さんのこれまでの人生はいかがでしたか?
何一つ悲しみや苦しみがなくて順調そのもので笑いが止まらない日々の連続でしたか? 

逆に先生のお話のように、人生が思うようにならず、悲嘆のどん底の中から仏縁にめぐまれ、
お寺まいり、お聴聞が始まって今の私かあるという方も少なくないと思います。

 凡夫である私がお浄上に往生して阿弥陀如来と等しいさとりを得ることも、
人間世界(穢土)に還って人々に仏縁を結ぶ活動も、すべて阿弥陀如来のはたらきです。


これは大きな驚きであり、よろこびでもあります。
今私か合掌し、お念仏を称え、礼拝するようなお育てを賜ったことは、亡き人々の
ご縁あればこそと味わうことができます。

そして私もいのち終えてお浄土に往生させていただいたなら、人間世界に還って
多くの人々を真実の世界へ導くため、精いっぱい自由自在に活動できる身にならせて
いただくのです。

この阿弥陀如来のお心を疑わずに聞いていくことが、浄土真宗の特色である。
”お聴聞”です。


   大乗 7月号  藤井邦麿師 より

尚 『拝読浄土真宗のみ教え』は 定価300円十税 本願寺出版社0120-464-583 で求められます。


         


           私も一言(伝言板)