第1118回 念仏は 呪文では ?

 平成26年 6月26日~

呪文とは、人間が自分の願望を実現するために、何らかの力を

借りようとしてとなえる言葉です。
ですから、それは自分の意志で自由に操作ができるという考えにたつ、
自己中心的なものです。

これに対して、念仏は如来さまの本願力にすべておまかせした
他力の信心が、私の口をとおして外にあらわれたものです。

したがって、となえることによって何らかの効果を求めようと
するのではなく、となえるままが如来さまの仰せにしたがった
すがたであり、報恩感謝の心からでるものです。

このように、如来さまが中心であることと、人間の祈願や祈祷の

心が含まれないという点で、念仏は呪文とまったく本質をことにしています。

ところで、あなたは毎日水道の水を使って生活しておられることでしょう。
あの水道の水は蛇口の栓をまわすと、いくらでもでてきますが、
それは蛇口の栓だけから水がでてくるのでしょうか。

決してそうではありますまい。それには水源があるのです。

京都では、その水源は近江のびわ湖だということですが、
びわ湖の水ということになるとちょっと尽きることがありませんね。

お念仏一つで救われるということもそれと同じ道理です。

私が発声したから値打ちがあるというのでなく、お念仏となって
現われる水源のあることに気づかねばならないのです。

法然聖人は第十八願によって念仏往生といわれました。

ところがその念仏をあやまって、われわれが口を開いて発声するから
救われると考えちがいをしたものがいるから、親鸞聖人はさらに
その前の第十七願を開きだして、念仏となって現れるわれる
水源に気づかねばならないと示されたのです。

実は私たちの口は、うそをいったり、人の悪口をいったり、
生きたものを殺して食べたりするので、こんな口を動かして
発声することに値打ちがあるとはいえないでしょう。

そうした私たちに仏が名号を聞かせて、仏の生命をそそいで
救うと誓われた、第十七願の水源から通うて来るお念仏であればこそ
値打ちがあるのです。

その第十七願の名号は、さらにさかのばって第十二、第十三願の光明無量、

寿命無量の仏のさとりの水源から流れでているのです。
すなわち時間無限、空間無限の真理をきわめ尽した、 仏の真実のさとりと、
まことの救いをあたえるべく、名号を聞かせ、信じさせ、お念仏の喜び を

うかべさせねばおかぬと誓われているのです。

このようにお念仏には永遠のまことの救いが 脈々と通うていること
仰ぐことが大切なので、そこを親鸞聖人は称えるより前に
聞いていただくことが肝要だと示されたのです。

また聖人が「無慚無愧のこのみにて、まことのこころはなけれども、
弥陀の廻向のみ名なれば、功徳は十方にみちたまふ」と
うたわれているおこころをよく味わっていただきたいものです。

         山本仏骨先生著 「あなたの問いに答える」ほかより

また、前門さまは 著書「愚の力」の中で 浄土真宗は
「念仏を称えれば救われる」よりも「念仏を称える身になって救われる」
という言い方がしっくりします。

 私の全体が阿弥陀如来によって支えられ、受け止められているという、
 深い目覚めをともなっています。
 つまり、私全体を支えてくださっている阿弥陀如来を信じるということです。
 阿弥陀如来を信じることそのものが大事なのです。・・・・ と


         


           私も一言(伝言板)