第1113回 浄土は黄金の大地

 平成26年 5月22日~

 浄土の「水」は輝いています。
また「大地」も輝いています。

『阿弥陀経』には、大地は「黄金を地と為す」と説かれています。
私などは、地面が黄金に輝いていたら大変だろうなと思ってしまいます。
また、土地の値打ちを考えるときは、すぐ一坪いくらと考えてしまいます。

それは、「大地」を財産という、欲望の対象としてしか感じることが
できないからです。

ところが、「大地」は私を生かし、万物を生かし、平等にすべての物を
受けとめて、一言の礼も要求しません。
そこに「大地」の「大地」たるゆえんを感じたとき、
「大地」は当然、黄金をもって譬え尽くすことのできない、
無限の輝きをあらわします。

 このように「大地」を見ることができる境地、それが覚りの世界です。
その覚りの境地を人間の言葉で語ったとき、
「かの仏国土には、つねに天の楽をなす。黄金を地とし」という
表現となるのです。
本来、このような「大地」だからこそ、万物は等しく生かされているのです。

 この『阿弥陀経』に説かれた浄土の世界と、私の感受している世界を
比べれば、いかに私たちが我執にとらわれているかがハッキリとしてきます。
そのような世界を浄土に対して穢土と呼びます。

だからこそ、私たちは常に仏様の教えと、仏様の覚りの世界を

仰ぎながら生きることが大切なのです。

 その尊さを知らされたとき、その尊い生き方を自ら実践しよう
とすることは、自然な成りゆきでしょう。
そして、縁ある人たちに伝えていこうと努力することを「回向門」というのです。

ただし、言葉で説明することは簡単ですが、その生き方は生半可な

ことではありません。
でも、このような人生の方向性を持つことが大切なのです。

もちろん、ゴールではありません。
人生のよりどころを確立することです。
その通りにはなかなか実践できなくても、こうした方向性を持って 
生きていこうと努力すること、これが「念仏申す生き方なのだ」と、
親鸞聖人は天親菩薩によってこころを開かれたのです。


浄土真宗の救いとは、このことだったのです。
このことを確認されたとき、自ら「親鸞」と名のられたのではないか

と思われます。

    探求社刊 天岸浄圓師著 浄土真宗の生き方 より


         


           私も一言(伝言板)