第1114回 お念仏は 誰の仕事

 平成26年 5月29日~

 私は積極的に「お念仏申しましょう」と勧めます。
それに応じて、中には細々とした声のご門徒さんもいらっしゃいます。
でも、できればお念仏は大きな声で申しましょう。

 お念仏は称えようとする意志を持たないと、称えられません。
ですから仏様の前で手を合わせたときには、つとめて

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声に出すようにしてください。

おつとめやご法話のはじまるとき、終わったときも同じです。
ご飯をいただくときも、食前と食後に手を合わせて
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 」と、称えていただければと思います。


もちろん、回数をたくさん称なければいけないというわけではありません。
しかし、せっかくのお念仏をいただきながら、称えないのは
横着ではないでしょうか。
努力すべき点は、努力すべきです。

 なかには、念仏の数をたくさんとすすめるのは「自力」ではないかと、
不審に思われるかたがあるかも知れません。
でも、気にしないでください。それは。自力アレルギー”なのです。

「自力」になるからといって、称えることを止めるようなことがあっては、
かえって阿弥陀仏のご本願に反してしまうのではありませんか。
称えさせていただこうと努力することを「自力」と考えるのは誤解です。


「自力」とは称えた回数などによって、仏様によい
評価をしてもらって救われようとするこころだからです。

 「自力」を認める宗旨ですと、人間の努力を救いの目安と考えます。
このかたたちは人間の努力と仏様のお助けが合体して、
救済が成立すると考えます。
そう考えますと、お念仏は人間の努力となってしまいます。
そして、それを評価されるのが、仏様ということになります。

しかし、親鸞聖人は、『浄土論』にある、阿弥陀仏は
念仏となって「尽十方」しておられるのですから、
念仏申しているままが仏様のはたらきそのものであり、
念仏は助けていただくための条件ではなく、念仏を申せるように
なっていること自体が、阿弥陀仏の救いのはたらきそのものと
教えてくださいました。

お念仏は、仏様が私を助けてくださっているお仕事そのものだったのです。

   
探求社刊 天岸浄圓師著 浄土真宗の生き方 より


         


           私も一言(伝言板)