第1112回 迷いの H2O  〜仏さまの智慧の目〜

 平成26年 5月15日〜

お浄土とは一体どんな世界でしょうか。

よく、お寺のご住職が、
「浄土とは、仏様の覚りの世界です。迷いの世界とは違うのです」と、
おっしやります。

言葉そのものは正しいのですが、なぜか実感できないのです。

近代的、科学的な教育を受けた私たちの世界観は、ここに覚りの
世界があって、あちらに迷いの世界があると、別々のものとして
個別的に考えます。

しかし、宇宙のどこにいっても、実体的な覚りの世界はありません。
ですから、「迷いの世界から、覚りの世界へ」などといわれると、

ますます迷ってしまうのです。

 迷いということは、ものが正しく感受されていない状態です。

自分の経験によって作り上げた自分の感性にだけこだわって、
自分が見聞きしていることが、すべて正しいと思いこんでいるのが
迷いの世界です。


それとは逆に、自己のかぎられた感性を離れて、真にものを
感受することができる境地が開かれることを、「覚りを開いた」
というのです。
その覚りといわれる感性にうつってくる世界を浄土というのです。

『仏説阿弥陀経』というお経をご存知でしょうか。
このお経のはじめの部分は、阿弥陀仏の覚りの感性によって
受けとめられている、世界の様相が説かれています。

そこには「極楽国土には七宝の池あり、八功徳水その中に充満せり」
と説かれています。
「八功徳水」とは、八つの功徳のある水ということです。
「功徳」とは、素晴らしいはたらきのことです。
そのような「水」が池に充満しているというのです。

 では、お浄土の「八功徳水」と、私たちが現実に顔を洗ったり、
飲んだりしている水とでは、どう違うのでしょうか。
化学的にいえば「水」はH2Oです。
お浄土の水もH2Oでしょう。
今朝、私が洗面所で顔を洗ったときの水も H2Oです。

 私たちは、つい四十数年ほど前までは、今とはまったく違う
「水」の使い方をしていました。
その変化は顔の洗い方にハッキリとあらわれています。
冬場ならヤカンをコンロにかけてお湯を沸かして、洗面器に移し
顔を洗っていました。

ところが今はどうでしょうか。
水道栓を開けるとジャーとお湯が出てきます。
流れ出て来た「水」に何か感じられましたか……
何も感じなかったのでは……。

そして、顔を洗うとき、ほとんど蛇口はそのままで、
お湯は出放しでしょう。何とも思いませんか。

水を飲むときも、ありがたいことだと思っておられますか。
あたり前のことだと飲んでいますね。

それを私は「迷いのH2O」と表現しています。
ありがたいとも思わず飲んで、顔を洗っています。
その鈍感な感性こそが、迷いといわれる実体なのです。

 お浄土は違います。
「八功徳水」の「八」とは、限りないということを意味しています。
仏様とは、一滴の「水」に限りない素晴らしさを感じ取られるかたなのです。
その無限の素晴らしさ、ありがたさを感じておられる、
豊かな感性を、覚りというのです。

それが浄土をひらいている本質です。
明日の朝、顔の洗い方を変えることができたならば、
それは浄土がはたらいてくださった証拠なのです。

 そして、どうしようもないと思っているような人間も、
「あなたが生きていることは素晴らしいことなんですよ」と、
その ”いのち”の無限の重みをしっかりと受けとめ、平等に
導いてくださるのが仏様なのです。

私たちのこころは、自分の好き嫌いを中心にしてすべてを受けとめます。
ですから自分の都合によって、好き嫌いが百八十度変わってしまいます。

我執という迷いから見るからです。
そこに愛憎が生まれ、苦悩が生じます。

仏様は違います。人間の我執にまみれた愛と憎しみをこえ、

そこで生きていること自体が限りなく尊く、素晴らしく
光り輝いているのだと見てくださるのが、仏様の智慧の目です。
その智慧の目を開くことを、覚りというのです。

 探求社刊 天岸浄圓師著 浄土真宗の生き方 より

        


   私も一言(伝言板)