第1106回 天上天下唯我独尊 〜仏さまとは どういうお方〜

 平成26年 4月3日〜

仏さまとはどのようなお方かを 私たちに明確に伝える言葉が 
天上天下唯我独尊…であるとの
行信教校の天岸浄圓 のこんな文章に出会いました。


 4月8日、お釈迦さまのご誕生をお祝いする「花まつり」が各地
で行われます。
色とりどりの花で飾られた花御堂のまん中に、お立ちになられて、右手で
天上を指し、左手は大地を指される、誕生仏を安置して甘茶を注いで
お祝いします。

 お釈迦さまはお生まれになったとき、天上天下唯我独(為)尊」と
仰せになられたと伝えられています。
この言葉はよく知られていますが、この句には下の句があるのです。
それも数種が伝わっています。

その中の一つに 『修行本起経』の「三界皆苦吾当安之」の句があります。
「天上天下にただ我独り尊し(とす)三界は皆苦なり吾まさに之を安んずべし」
と読みます。

 この言葉は、単にお釈迦さまの伝記というのみでなく、仏さまと
いうことが全くわからない私たちのために、仏さまとはどのような
お方かを明確に伝えるための言葉なのです。

「天上天下唯我独尊」。この世界中で私が最も尊い者であると
直訳されます。
大変傲慢な言葉に聞こえますので、少し意味を汲んで翻訳しますと、
「この世界中、全宇宙で、また、いつの時代でも、あらゆる者から
最も尊いと尊敬される生き方、それが知りたい者は、私を知りなさい」
といわれたのです。

 その世界中が尊敬すべき生き方こそが、下の句の内容です。
「この世界は、苦しみと悩み、不安と不幸に満ちている。
私はその人々の不幸を担い、苦に代わって、わけへだてなく
自身の幸せを恵み、安心を与えていく。
これこそが世界中で最も尊い生き方である」。

 この生き方を本当に尊いと位置づけるならば、世界は、そして
いのちあるものは、すべて穏やかに、実り豊かに生を全うするであろう。
逆に、このことを疎かにするならば、恵まれたいのちはむなしく
滅びに向かうであろう。
故に人々は、心すべきであるとの意味の込められた言葉です。

 ここに示された生き方を尊いと受け入れる人を仏教徒と呼びます。
この人々の悲しみ、苦を担い、自らの幸せを他に与えて、人々が
幸せであることを自らの幸せと感ぜられる仏さまを尊いと仰ぐとき
無自覚で自己中心の愛僧にまつわられる自分の生き方を、
まことに恥ずかしいとの自覚が生じます。
その自覚より発せられる言葉が「凡夫」です。  

 ですから「凡夫」とは、自らを恥ずかしいと知らされた者の言葉であり、
決して認められた生き方ではありません。 
仏さまを尊いと仰ぐ者のみが実感させられる、極めて深い宗教的な用語なのです。


他の人の苦しみ、悲しみに接しても自分をまもり、
時には優越感に浸り、他の人と共に幸せをとつとめられる仏さまにふれながら、

どうしても自分の幸せにのみこだわる、そのことに悩み、煩うところに
「煩悩」が生じます。
ただ、自分は欲望と怒りを具えているというだけでは「煩悩」とはいいません。

また、仏さまを仰ぐことは、それが自分自身の人生の目標になるということです。
これが私の目指すべきゴールになるのです。
他の人の悲しみを共にし、他の人の喜びを自らの喜びとする、
尊い生き方を一人ひとりが人生の目的と掲げ、人々と共に少しずつでも努め、
次の世代に伝えていくべきです。

 私たちは「仏さま」という言葉をほぼ日常的に使っていますが、
案外、その内容を知らないようです。
わたしたちはどうして仏さまにお参りしなければならないか、
「花まつり」をご縁に真剣にたずねるべきです。

 妙念寺電話サービス 次回は 4月10日に新しい内容に変わります。



        


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