第1104回 お念仏で何が変わるか 〜光りを周りに反射する〜

 平成26年 3月20日〜

浄土真宗本願寺派の 大谷光真ご門主 が 親鸞聖人のご和讚を 
味わい深くまとめていただいた
 「いまを生かされて」 という本が発刊されましたが、
その中に こんな文章がありました。

お念仏のある生活という項目に。

「信じると何が変わるのですか」 「念仏すると何が変わるのですか」と
よく問われます。
私を受け入れてくださる阿弥陀如来のみ心と出遇って、そこから私に
どういう道が開かれるのか、というお尋ねです。

   弥陀の名号となへつつ   信心まことにうるひとは

  憶念の心つねにして   仏恩報ずるおもひあり   (浄土和讃)

阿弥陀如来の願いに出遇って、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す身になると、

私のこころに阿弥陀如来の願いがはたらき続けて、願いに応える生活を
導いて下さるのです。

「憶念の心つねにして」 は、『浄土真宗の教章』の生活の項では、
「阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ」と表現されています。

憶念の心とは、“阿弥陀如来のみ心に照らして”という基準が
いただけることです。

それを基準にわが身をふり返るようになると、目先の損得に
振り回されない場所を生活の中にいただくことになります。
これは大きな変化です。そしてそこから、私に向けられた願いに
応えようとする「仏恩を報ずるおもひ」が生まれます。

 仏教国であるタイの農村では、結婚式やお祝いごとがあると、
身内だけでなく、通りすがりの人たちにもご馳走を食べてもらう
習慣があると聞きました。

一昔前は、北海道に開拓に入った人たちの間にも同じ習慣があり、
顔を知らない同士でも一緒の苦労をしているのだからといって、
分け隔てなく振る舞いをしたそうです。

 こうした習慣の根っこには、私たちはいろいろなご縁に支えられ
生かされている、だから、見える縁・見えない縁を区別せず、
いまできることでお返しをしましょうという考えがあるのだと思われます。

 また、阿弥陀如来のご恩に報いる思いは、阿弥陀如来と
私との間だけの、一対一の往復で終わるものではありません。

 もちろん阿弥陀如来の救いをありがたく思い、「ありがとうございます」と
感謝する気持ちから出発するのですが、こちらがいただくばかりでは、
ご恩は私で行き止まりになってしまいます。

せっかく、阿弥陀如来の光に照らされているのですから、その光を
周りに反射してはどうでしょう。

 ご恩を受けたからには、具体的に何かしなければならないという
義務感からではなく、私にできることは何かないだろうか、と
じっとしていられない身になり、今の自分にできることを探す方向へと
転じることができるのです。
ここに『仏恩を報ずる』・ということぱの意味があります。 ・・・・・・・

という文章です。
阿弥陀如来の光に照らされているのですから、その光を
周りに反射する生活を 送らせていただきたいものです。

妙念寺電話サービス 次回は 3月27日に新しい内容に変わります。



        


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