第1097回  願作仏心 〜衆生を仏にならせようと思う心〜

 平成26年 1月30日〜


親鸞聖人が教えて下さいましたのは、阿弥陀如来のご本願を信じること、

信心一つで往生成仏させていただくことです。
しかも、この信心は、私が起こす心ではなくて、阿弥陀如来さまから
賜る心であります。

煩悩渦巻く迷いの世界にあって真実を知らず、さまよっている私を救い、
お浄土でさとりを開かせて下さる阿弥陀如来のご本願のはたらき、
それが南無阿弥陀仏となって今ここに届いています。

ご本願の力、南無阿弥陀仏のはたらきが、私を信心の身と
ならせて下さいます。
これは生死の迷いを超えることであるといえましょう。


今、何か困ったことがあるという個別の悩みを解決する
対症療法ではなくて、根本から悩みを受け止める体質の変換といえましょう。

「五濁悪世(ごじょくあくせ)のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
 ながく生死(しょうじ)をすてはてて
自然(じねん)の浄土にいたるなれ」 (註釈版聖典591ページ)

と ご和讃にうたわれました。

ところで、大乗仏教という言葉をご存知でしょう。
親鸞聖人は お手紙の中で、
「浄土真宗は 大乗のなかの至極(しごく)なり」(同737ページ)と
おっしゃっています。

大乗とは文字通り大きな乗り物という意味です。
小さな乗り物は乗せる人数を制限しなければなりません。
大きな乗り物は誰でも乗せることができます。
ご本願は誰でも乗れる大きな船であります。

大乗の精神は、この私が漏れることなく救われるという意味で、
有り難く受け取ることができますとともに、他の人々や
いのちに心を開いてゆくことへ通じます。

根本にかえって考えてみますと、私が迷いの世界を超えて
真実のさとりの世界、お浄土を目指すのは、ただ私が
不幸であるとか、人生が辛い、悲しいということだけではありません。

自らの煩悩、無知によって自らを傷つけ、他のいのちを
傷つけているからであります。
ですから、私がご本願に救われる道を歩むとき、他のいのちを
切り捨てて、自分だけがご利益を得るということはありません。
逆に、他のいのちと共に生きようとする私になっていくことであります。

親鸞聖人のご和讃に、

「浄土の大菩提心は
願作仏心(がんさぶっしん)をすすめしむ
 すなはち願作仏心を
度衆生心(どしゅじょうしん)となづけたり」 (同603ページ)

とあり、お浄土で仏になろうと願う心は、
すなわちよろづの衆生を仏にならせようと思う心であるとおっしゃっています。
「南無阿弥陀仏」とお念仏申すこと、称名念仏は、
こういう意味で、まことに大切なことがらです。

今日、残念なことに、口先ばかりで何もしないことを 「念仏している」と
たとえる人があるようであります。
本当のお念仏は、阿弥陀如来さまをたたえることであり、
私がすくわれる喜びをあらわす言葉であります。

お念仏から聞こえてくるのは、阿弥陀さまが、私たち、
我らを心配して、捨てておけないとよびつづけていらっしゃるお心であります。
阿弥陀如来さまが、心配していらっしゃる、心配していて下さるということから、

身の回りの出来事、世界のありさまに心を向け、共に、
心を通わせることのできる繋がりを育てていきたいと思います。

 2004(平成16)年 春の法要・立教開宗記念法要 ご門主法話
 「
阿弥陀如来のご本願は 誰でも乗れる大きな船」より一部転載


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