第1088回 信 心  ~如来の真実が至りとどく~

 平成25年 11月29日~

 そのむかし、遣唐使であった阿倍仲麻呂が、日本へ帰国しようとしたとき、
中国の要人は「帰帆但風信」(帰帆ただ風にまかせよ)と書いた紙片を
手渡したといいます。(宗興勧学『瑕丘法語』)

帰りの船の帆はただ風にまかせて、けっして無理をするなという
忠告でありました。
信という文字は、本来〈まかせる〉という意味を持っているのです。

 ところが、一般に信心ということばは、自己の心をととのえて、
神や仏に祈りを捧げることをいい、みずから敬虔な感情を

発すことだと思われています。
そのすがたは崇高であっても、得てして自己の願いを
満たす手段となっています。

また、「信は徳の余り」という諺があるように、生活にゆとりがあれば
信心もよし、というようなとらえ方をする人もあります。

 たしかに、どのような宗教でも信を語ります。
学問が疑いをその出発点とするに反して、宗教は信の可否が
問題になるのです。
ところが親鸞聖人が、

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり (『教行信証』「信巻」末)
と述べられ、

さらに覚如上人が、

この信心をば、まことのこヽろとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、
またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり
                               (『最要』)
と語られたように、浄土真宗の信はわれらが発す信心
ではないということです。

 したがって「真実信心」とか「真実の浄信」と称せられることを思えば、
わがはからいはすべて否定されるものであって、信は「得る」ものであり
「よろこぶ」ものであり、同時に 「敬う」もの「いただく」ものなのです。

まことに、
「信心」は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり
                           『一念多念証文』)
ということばの通り「まかす」ものなのです。

 歌人として、また晩年は親鸞聖人の教えに親しんだといわれる
伊藤左千夫は、浄土真宗を領解して、

み仏の大きめぐみの計らひの内に迷はずあれのみ教え

と詠っています。はからいはわれらにあるのではなくて、
如来がわれらをはからいたもうのであります。
如来の真実にふれて、虚仮不実の身が根底からゆり動かされて、
狂いなきは如来のまことのみと仰ぎ知られたとき、
信をよろこぶすがたが出てくるのです。

本願寺第八世の宗主であった蓮如上人が、
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願を
こころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり
                       (『御文章』五帖第五通)
と明確にされたのも、本願を仰ぎ、名号を聞きひらくことなくして、
信を得ることができないという浄土真宗の要を知らさんがためでありましょう。

 信心は、如来の真実が至りとどいたすがたであり、
ふたごころなく深く信じて疑わぬためにこそ「信楽」といわれます。
また蓮如上人は「安心」ということばをよく用いて、他力の信の
得やすいことを示されたのでありました。


   藤澤量正師 仏教語のこころ 「ことば」 より

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