第1089回 後 生 (ごしょう) ~藤澤量正師 仏教語のこころ~

 平成25年12月 5日~

蓮如上人は 『御一代記聞書』 のなかで、念仏の法を簡潔に語るとするなら、

後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし (註釈版 一二八九頁)

と示しておられます。
このことは、仏のさとりを得るべくもない私が、阿弥陀如来の
願力ひとつによって仏に成ることができると思えば、
如来の思し召しのままにすべてを打ちまかせるということが、
仏に帰依信順するすがたであるということを明らかにされたものです。

 言うまでもなく、後生ということばは、今生に対することばです。
後生というも、後世と語るも、あくまで来世のことを指すのです。
この世を終わって、この私は何処に生まれるのかということが
明確になってこそ、今の生が確立されるということです。

まさしく 「後生の一大事」 ということは、私が、
後の世に仏と成る身となり得ているかということを、
今問われていることなのです。

無益の事を言ひ、無益の事を思惟して、時を移すのみならず、
日を消して、月を亘りて一生を送る、尤も愚かなり。(『徒然草』第一〇八段)

とは兼好法師のことばですが、それはまさに 『大無量寿経』 の
しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。(五四頁)
と説かれてあることと同じです。

 世間では 「後生より今生が大事」 と言って、未来のことに
腐心するよりも、今を大事と考えるべきではないかと
言われていますが、今が大事と言われるためには、
自分のいのちの依りどころ、真に落ちつく世界を持たねば、
確かな人生を持つことはできないはずです。

ただ時に 「後生願いと海辺の松に真直なものはない」 と
賤称されるのは、自己の安楽のみを願って、現実を見る眼の
不確かさ、周辺に対する配慮のない自己中心的な愚かさを
指摘しているのでありましょう。

「後生嫌い」 ということばにしても、単に後生を願うことのみに
終始している人びとをみて、仏法嫌いになった人のことを
指しているようです。

 また私たちは 「後生だから何とかしてください」 ということばを
よく耳にします。

人に哀願するときに用いられているのですが、後の世に
安楽土に生まれることを願うほどに真剣であるということが、
このことばをつくったのだと考えることができます。

二十四歳の若さで亡くなった神戸のある坊守は、仏法の
お育てをいただいたよろこびを体いっぱいに沁みこませて、
亡くなる直前に、

み仏にすべてをたのみまいらせてよろこび送る日々ぞ安けき

と詠っています。病のために、一日だけしか母乳が
与えられなかったという幼な子への愛惜も、この苦悩とて
如来のお見通しのなかであるという安らぎを得て

「ご縁あれば、お浄土から遣わされるのだから」 という思いに
転じています。
後生の明るさが、そのまま今生の安らぎとなっているということでありましょう。

 藤澤量正師 仏教語のこころ 「ことば」 より

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