第三十三 立憲政體の確立
西南の役後は、政府と意見を異にするものも、専ら言論によりてその主張を貫かんとし、立憲政體の樹立に漸次歩を進めたりき。蓋し武家時代には、將軍・諸大名が専制政治を行ひ、全く民意を認めざりしが、王政維新に當り、天皇は時勢の進運をみそなはし、廣く人材を求めて公議輿論を採用するの國是を立てたまひ、はやくも列藩の人材を徴士・貢士として政治に参與せしめ、また五箇條の御誓文に、廣く會議を興し萬機公論に決すベき旨を宜したまへり。よりて政府は、この聖旨に基づきて、明治元年十二月公議所(後の集議院)を東京に置き、諸藩より選出せる公議人を集めて、制度律令を議せしむ。新進の才俊各々陋習打破の意見を述べ、その施行せられて改革せらるゝもの頗る多かりき。優二年三月更に待詔局(後、集議院に合併)を開きて、庶民の建言を納れ、改新の實日を逐うて擧りしが、越えて四年太政官の官制を改正して、三院を置くや、その左院に議長・議員を置きて立法の府となし、集議院をこれに屬せしむ。かくて、立法議定の施設は着々進行しぬ。
然るに西洋にては、はやく英國に立憲政治行はれ、次第に米・佛・獨の諸國にも及びたれば、歐米に留學せるものは、その議院制度の美を稱して、我が國にもこれが必要を説くもの多し。かくて民權の思想やうやく社會に廣まるに至りて、たまたま政府と議協はずして野に下れる副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の四参議らは、遂に明治七毎、民選議院を設立して天下の公議を伸張せんことを建白せり。こゝに於て海内これに和するもの多かりしが、加藤弘之らの學者は時尚早しとして、これに反駁し、新聞に雑誌に賛否の論議囂々として一時大いに世論を惹起せり。
かゝる問に政府は漸進主義を執り、まづ政他の政調に審議を重ねたる後、八年四月天皇詔して、漸次に立憲政體を立てんことを諭したまひしかば、從来の左右両院を廢し、新に元老院を置きて、國家の勲功者をその議官に任じ、法律を議定せしめて、これを上院に擬し、また地方官會議を開き、地方長官を東京に召集して民政を協議せしめて、これを下院に準じ、別に大審院を設けて司法權を固めたり。ついで十二年、更に府縣會を、開き、始めて民間選出の議員をして、府縣の經費などを議せしめ、自治の瑞を開きて民間の政治思想を養ひ、次第に立憲政體を立つるの階梯となせり。
されど民間には、急進を主張するもの多く、各地に政談演説會を開きて輿論を喚起し、また新聞・雑誌に筆を鼓して時事を論評し、大いに氣勢を高めたり。中にも、板垣退助は愛國社を組織して、盛に自由民權論を鼓吹し有志八萬餘人の連署を以て、國會の開設を請願するに至れり。かくて國民の政治思想一般に發達せるを以て、遂に十四年十月十二日、天皇勅諭を下して、明治二十三年を期して國會を開くべき旨を宜したまふ。こゝに於て民論始めて定まり、板垣退助は自由黨を、大隈重信は改進黨を、丸山作樂・福地源一郎は立憲帝政黨を組織して、各主義政綱を立て、しきりに四方に遊説して政見を發表し、黨員を集めて鋭意國會の開設に應ずる準備をなせり。
政府も、立憲政治の實施は最も慎重を要することなれば、まず歐洲諸國の立憲の組織及びその實情を調査せしめんとし、十五年伊藤博文を正使とし、西園寺公望らを随員として、歐洲に派遣せり。一行は英・佛・獨・墺の諸國を巡りて、各國の制度・典例及び憲政の實況を観察せしが、博文はおもに獨・墺に留りて、立憲君治國の憲法とその實行の情況を研究し、憲法は必ず自國の國體に基づきて、君主の制定すべきものたる所以を確信して、翌年歸朝したり。その頃恰も、維新以来の元勲として、剛毅果斷を以て常に難局を打開し来りたる岩倉具視は、病を獲て薨去し、後、太政大臣三條實美は、奏請して官を辞したれば、當時前後の措置多く博文の参畫によりき。
すなはち、十七年宮中に制度取調局を設け、博文をその長官として、憲法の起草と諸制度の精査に當らしめたりしが、まづ華族令を制定して、公・侯・伯・子・男の五等の爵位を設け、翌十八年十二月、中央の官制に大改革を斷行せり。蓋し維新以来官制しばしば改れりといへども、ほゞ大寳令の制に據りて、これを潤飾せしに過ぎざりしが、こゝに於て全く從来の官職を廢して、新に内閣制度を創立し内閣總理大臣は外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の九省の各大臣と共に内閣を組織し、至尊を輔弼したてまつりて、すべて政務の責任を負ふこととなれり。しかして宮中には、宮内大臣の外に内大臣・宮中顧問官を置き、内閣の外として、宮中・府中の別を明かにしぬ。この時博文始めて總理大臣に任ぜられ、その他の閣員も從来の慣例を破りて、専ら人材を抜擢して任命せられ、全く舊来の面目を一新したり。ついで二十一年には、新に枢密院を設け、元勲練達の人を選抜して顧問官とし、天皇諮詢の最高府となし、博文をその議長に任じ、時の農商務大臣黒田清隆を進めて内閣總理大臣となしたまへり。
立憲政體の階梯の進むと共に、一面自治制度の進展を見たり。江戸時代には、庶民の間に名主・五人組の制度ありて、地方の政務は圓滑に行はれたりしが、明治維新に際して、一旦これらの舊制は塵せられぬ。されど年を逐うて再びその必要を感じ、政府は、山縣有朋らをして、廣く歐洲諸國の制度を調査せしむると共に、古来の隣保團結の美風を参酌して、新に自治制度を布けり。すなはち地方共同の利益と衆庶臣民の幸福を増進せしむるために、明治二十一年市制・町村制を發布し、市・町・村を自治體となし、各々、公選せる議員を以て市町村會を組織して、諸般の事務を議せしめ、その議決を執行する行政機關として、公選の市町村長を以てこれに當てたり。ついで二十二年三府・四十三縣を定置すると共に、翌年府縣制・郡制を發布し、府縣には公選せる議員より成れる府縣會及び府縣参事會を置きて、主として財政上の事項を議決する機關となせり。これより地方の自治制はいよいよ發達せり。
かゝる間に、憲法調査の大命を受けたる伊藤博文は、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らと共に、日夜鋭意これが起草に當りしが、既にして草案成るや、天皇これを枢密院の審議に付し、親臨して統理したまふ。天皇はひたすら國家の隆昌と國民の慶福を増進せんとの大御心よりこれを欽定せられ、いよいよ明治二十二年二月十一日、紀元節の佳辰を以て大日本帝國憲法を發布したまへり。この日天皇まづ賢所・皇霊殿に御親告の後、皇后と共に宮中正殿に出御して、大典を奉げたまふ。
さきに明治六年皇居炎上し、天皇久しく赤坂離宮にましまししが、こに宮城新に成りて、その正殿に於て、姶めてこの盛典を行ひたまひしなり。式場には、皇族・大臣・外國公使をはじめ、廣く内外の官民を召されて参列せしむ。天皇すなはち勅語を賜ひ、憲法を内閣總理大臣黒田清隆に授けたまふ。儀終りて、天皇また皇后と共に、青山練兵場に於ける観兵式に臨御したまへり。鹵簿肅々宮門を出づれば、萬民沿道に雲集し、萬歳を唱へて鳳輦を奉迎せり。實に曠古の盛事にして、國民こぞつて天皇の御盛徳を仰ぎたてまつりて、その恵澤にうるほふを喜び、歓呼の聲都鄙に充ち満てり。
大日本帝國憲法は、わが國體に基づき西洋の法制を参酌して定められたる不磨の大典にして、天皇・臣民權利義務・帝國議會・國務大臣及枢密顧問・司法・合計・補則の七章七十六條より成る。すなはち萬世一系の天皇大日本帝國を統治し、憲法の條規によりて統治の大權を總攬したまひ、臣民はこれによりて國家の政務に参與し、生命財産の安全を保護せらるゝと共に、法律の安むるところに從ひて、兵役・納税の義務を負へり。ぜた立法・司法・行政の三作用を分ち、帝國議會は立法に参與し、裁判所は可法權を行ひ、中央及び地方の行政官廳は行政を掌りて、國政の運用巧みに行はるゝこととなりぬ。
憲法と同時に、皇室典範を制定あらせらる。典範は、わが皇祖皇宗の御遺制に基づき、皇室の大事に關する根本の法則を定めたまへるものにて、皇位繼承・踐祚即位・成年立后立太子・敬稱・攝政・太傳・皇族・世傳御料・皇室經費・皇族訴訟及懲戒・皇族會議・補則の十二章六十二條より成れり。これまたわが國體に重大なる關係を有する國家の大法にして天壌無窮の皇運ますます盛に、國家の基礎いよいよ固くなりぬ。
なほわが國に於ては、特に憲法の附屬法規として、議院法・貴族院令・衆議院議員選擧法など制定せらる。帝國議會は貴族院・衆議院の両院より成立し、貴族院は皇族・華族・勅選議員を以て組織し、衆議院は公選の代議士より成る。すべて法律及び歳出入の豫算は、両院の協賛を要することとせり。かくて二十三年始めて衆議院議員を選擧し、政府も元老院を廢して、その議官を多く貴族院議員に任命したりしが、いよいよその十一月二十五日、第一回の帝國議會は東京に召集せられ、伊藤博文は貴族院議長に、中島信行は衆議院議長に任ぜられぬ。二十九日天皇貴族院に行幸して、開院の式を擧げさせたまへり。
ここに於て、五箇條の御誓文の聖旨は貫徹せられ、立憲政體の實全く備れり。顧みれば、海外諸國の憲法は、臣民まづこれを制定して君主に迫り、または長き歳月の間血の両を降らしたる後、始めて君民の協定にて成れるもの多し。然るにわが國の憲法は、わが建國以来の精神に則り、時勢に鑑みたまひて、天皇これを欽定したまひ、君民和樂のうちに極めて短日月の間にこれを拝戴するを得たるは、畢竟わが特殊なる國體によるものにして、以て宇内に誇るに足れり。これより議會は毎年召集せられ、憲政の實は年と共に擧りぬ。


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