第二十九 大政奉還
外交問題の紛糾するや、幕府は勅裁を請ひながら、その勅許をも待たずして外國と假條約を締結せしは、天朝を蔑視したてまつる専斷の措置なりとて、世論囂々、大老井伊直弼を非難するの聲四方に起れり。
かかる際また將軍繼嗣の紛議あり、將軍家定多病にして子なく、繼嗣を定めんとするに當りて、徳川齊昭の子慶喜のさきに一橋家を繼ぎたるが、年歯既に長じ、且、賢明にして夙に令聞あるを以て、越前藩主松平慶永・土佐藩主山内豊信・薩摩藩主島津齊彬らは、慶喜を迎へてこの内外多事の時局に當らしめんとせしに、また紀伊藩主徳川家茂が幼少なれど、將軍と血縁最も近きを以て、直弼は衆議を排し、將軍の旨を受けて、遂に家茂を迎へて世嗣と定めたり。こゝに於てますます直弼の専擅を憤るもの多かりしかば、直弼は越前・水戸をはじめ己に反封せる親藩を悉く處罰し、いよいよその間に確執を探くしぬ。
時に諸藩憂國の志士は、尊王論の勃興につれて所在奮起し、一意國事に盡さんとし、藩を脱して京都に集り、多く宮家・公卿に入説して、盛に尊王攘夷論を唱へ、遂には討幕の擧を決行せんとするもの少からず。さればそれらの徒は皆起ちて直弼の違勅の罪を責め、世論大いに沸騰せり。直弼すなはちこれを鎭壓せんとし、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎・梅田雲濱らの諸名士をはじめ、京紳の家士、婦人・僧侶に至るまで五十餘人を捕へて、それぞれ斬流禁錮し、なほその處分は廣く親王・公卿より諸大名に及べり。これを安政戊午の大獄といひ、いたく天下の耳目を聳動せり。
直弼のかゝる斷行はかへつて人心の激昂を招き、海内の怨嗟その一身に集り、遂に水戸藩の浪士ら十七人、萬延元年三月三日上巳の佳節に、直弼の登城を櫻田門外に要撃してこれを刺殺せり。この變は忽ち幕府の威信を失墜せしめ、幕威を維持するの原動力を失ひたるに、一方朝廷には、叡明なる孝明天皇大いに朝威を伸張したまひしかば、天下の形勢まさに一變せり。加ふるに幕府は士氣既に久しく頽廢し、財政また窮乏を告げて、資力を有せざれば、日を逐うて紛糾する内外幾多の問題をばたうてい處理すること能はず、尊攘討幕論はますます盛になり行きて、もはや從来の如き専制を許さず、廣く天下の意見を徴するのやむを得ざるに至り、幕府の根柢はここにいよいよ動揺しぬ。
こゝに於て老中安藤對馬守信正らは、公武合體を策し、朝廷の尊厳をかりたてまつりて、時局を處理せんとし、孝明天皇の御妹和宮の將軍家茂に降嫁したまはんことを奏請す。宮は時局の融和をはからんとの雄々しき御決意により、間もなく東下して江戸城に入りたまへり。
されど志士はこれを幕府の強請に出づるものとし、その僭越を憤慨して、信正の登城を坂下門外に要撃してこれを傷けぬ。かくて幕府の威信は回復するに由なく、京都の勢力はかへつていちじるしく興隆し、これより後、天下の大事はたいてい朝廷に於て處決し、幕府は唯朝命のまゝにこれを遵奉するの形勢となれり。
時に島津久光上京して、公武の融和に盡すところあり、朝廷命じて京都を鎭撫せしめたまふ。ついで大原重徳勅使となり、久光これを護衞して東下し、勅旨を幕府に傳へて、徳川慶喜を起して瀞軍の後見職に任じ、松平慶永を政事總裁職に補して、大いに幕政を改革せしめたまへり。こゝに於て幕府は新に京都守護職を置き、會津藩主松平容保を以てこれに任じ、安政大獄以来幕府の忌避に觸れたるものを赦免し、また諸大名参勤交代の期を緩め、その妻子の歸國を許してここに斷然永年の祖法を捨てぬ。
勅使の東下に引換へ、長州藩主毛利敬親上京して、盛に攘夷説を唱へて公卿の間に運動し、尊攘討幕を主張せる志士は皆これに歸せしより、久光の使命を果して歸京せし頃は、尊攘派の勢力頗る盛なりしが、ついで久光の歸國するに及びて、京都は全くその一派の占むるところとなれり。朝議またこれに傾き、敬親の建言を採用して、幕府をして速かに攘夷の議を決し、これを諸大名に布告せしむることとし、文久二年十月三條實美・姉小路公知を勅使として東下せしめ、土州藩主山内豊範をしてこれを護衞せしめたまふ。幕府創業以来、勅使を待つに君臣の禮を失ふこと少からざりしも、この時從来の法を改めて恭敬を致し、始めて名分を正すことを得たりき。翌年將軍家茂朝命に從ひて上洛せしが、天皇、公卿・將軍以下諸大名を徒へて賀茂の両社に行幸して、攘夷を祈願あらせたまひ、ついで石清水八幡宮に行幸し、その社前に於て攘夷の節刀を將軍に授けんとしたまひしに、家茂病を以て供奉を辞せり。されど家茂遂に攘夷の期日を五月十日と定めて、これを奏上し、あまねく列藩にも布告せり。
かくてその期日に至り、長州藩は突然下關海上に碇泊せる米國の商船を砲撃し、なほ佛・蘭両國の船艦をも砲撃して攘夷の魁をなし、ついで彼我の間に交戦あり。こゝに於て三國の公使相謀りて、下關海峡を開放せしめて通航を自由ならしめんとし、英國公使もまたその議に参加し、斷然たる處置を幕府に求めたり。されど要領を得ざりしより、翌年四國の船艦十七隻を以て聯合艦隊を組織し、直ちに下關に迫る。長州藩これに應戦して戦闘三日に渉り、諸砲臺おほむね彼の砲火のために破壊せられ、その陸戦隊に占領せらるゝに及び、高杉晋作らをして和を議ぜしめ、爾後海峡の自由通航を許し、償金を出すことなどを約して、和議遂に成り、後、幕府は長州に代りて巨額の償金を支出しぬ。またこれより先、薩摩藩も英國軍艦七隻と鹿兒島灣に砲火を交へたり。さきに島津久光の勅使を護衞して東下するや、その歸路武蔵生麦村に於て英國人のその行列を犯すものありしかば、從士憤りてこれに殺傷を加へ、幕府ために損害賠償金を英國公使に與へしに、公使は更に被害者遺族扶助料を薩藩に要求せんとして、軍艦を派せしかば、薩兵これと砲撃を開きしなり。烈風猛雨の中激戦數刻に及びて、薩州の砲臺多く破壊せられ、英艦もまた多大の損害を蒙りて退去し、一旦、横濱に引揚げたり。後、薩藩より使を横濱に遣はし、講和談判成りて局を結びぬ。
長州藩の率先して、外艦を砲撃して攘夷の實を擧ぐるの報一たび下に傳はるや、尊攘論者の意氣大いに揚りしが、朝廷また勅使を長州に下して、叡感の御旨を傳へしめたまふ。ここに於て藩の人士皆感激して死力を盡して報效を圖らんことを期し、敬親は久留米水天宮の祠官眞木和泉の主唱せる攘夷親征の議を採りて、これを朝廷に建議せり。權中納言三條西季知・同三條實美らの諸卿またこれに賛同し、朝廷遂に議を決して、車駕大和に行幸し、神武天皇の陵を拝して親征の軍議を興し、ついで神宮に行幸あるべき由を令したまふ、蓋し當時志士の中には、この機に乗じ、一擧して幕府を倒さんとはかりしなり。然るに京都守護職松平容保は、かねてより公武合體の穏和説を執れる薩州藩と謀り、中川宮尊融親王によりて親征の不可を奏上するところあり、かくて文久三年八月十八日朝議俄に一變して、大和の行幸を延引し、季知・實美らの参内を停め、容保らをして禁門を警衞せしめて、長州藩士の皇居警衞の任を解きぬ。こゝに於て長州藩士は季知・實美及び東久世通禧・壬生基修・四條隆謌・錦小路頼徳・澤宣嘉の七卿を奉じ、相率ゐて歸國せり。世にこれを七卿の都落といふ。朝廷すなはち七卿の官位を褫ぎ、ついで敬親父子の入京を停めたまへり。
かゝる際、尊攘の志士の時勢に憤慨して兵を擧ぐるもの所在に起り、藤本鐵石・松本奎堂らは大和の五條に、平野國臣らは但馬の生野に、藤田小四郎らは常陸の筑波に、それぞれ同志を糾合して討幕の魁をなししが、いづれも相前後して幕府のために撃破せられたり。中にも小四郎は武田耕雲齋と合して、上京して訴ふるところあらんとし、圍を衝きて中山道より越前に出でしが、遂に力盡きて加賀藩の軍に降り、後、幕府のために敦賀に斬らる。かくて攘夷討幕の氣勢一時大いに頓挫したりしが、一方長州藩士は、七卿の勅勘及び藩主以下の所罰を以て冤罪となし。これを許されんことを歎願し、且、朝議を復舊挽回せんとして、元治元年藩士福原越後についで國司信濃・益田右衞門介ら各々兵を率ゐて東上し、その赦免を奏請せしも許されず。福原は伏見街道を北上して大垣の兵に要撃せられ、國司は嵯峨を發して蛤御門に向ひ、益田は山崎を出發して堺町御門に進みしが、會津・桑名・薩摩の兵に迎撃せられて敗走せり。中にも蛤御門の戦闘は最も激烈を極め、かしこくも銃丸御所に達することありきといふ。こゝに於て幕府は勅命を受けて長州を伐たんとし、前尾張藩主徳川慶勝を總督とし、阿波・安藝・薩摩など二十一藩に出兵を命じて部署を定め、海陸両道より防・長二國に向ひて進發す。然るに敬親父子恭順を表し、福原・國司・益田の首級を獻じて、ひたすら罪を謝せしかば、慶勝すなはち命じて山口城を壊ち、七卿を封外に遷さしめ、追討の兵を撤して京都に凱旋せり。
然るに高杉晋作らの主戦黨は、かねてこの恭順を喜ばず、反對黨を斥けて藩論を一定し、藩主父子を奉じて山口に據り、再び兵を擧げたり。
幕府また慶勝の處置を以て寛大に過ぐとなし、慶應元年再征の令を發し、紀州藩主徳川茂承を總督とし、將軍家茂みづから大阪に到りて軍を督し、翌年幕軍をして長州の封境に迫らしむ。時に諸藩の中には再征の謂なきを主張して、幕命に從はざるものあり、薩州藩の如きも、既に土州藩士坂本龍馬らの奔走によりて長州藩と聯合し、その出兵を辞したり。かくて幕軍の土氣とかく振はざるに反し、高杉らは洋式の兵法を以て奇兵隊を組織し、進退駈引自由に、軍氣頗る振ひたれば、多く舊に依りて鎧兜に身を堅めたる幕軍をば、倒るところに撃破りぬ。たまたま家茂大阪城た薨じ、一橋慶喜入りて宗家を繼ぎしかば、朝廷詔して戦を停めしめ、翌年遂に征討の兵を解かしめたまへり。
かゝる内外多事の際、慶應二年孝明天皇痘を患ひたまひ、三十六歳の御壮齢を以て俄に崩御あらせらる。天皇近時國家未曾有の大變にいたく宸襟を悩ましたまひ、常に穏やかに公幕の間を治めたまひつゝ、着々朝威の振興をはかりたまひしが、特に外交の紛糾には宸憂日夜絶えず、九重の御階の櫻風そよぐにつけても、一に萬民の憂に大御心を寄せたまひ、熱祷を神宮にさゝげて、躬を以て國難に代らんことを誓ひたまへり。聖恩何時の世にかこれを忘るべき。
翌年正月、第百二十二代明治天皇十六歳の寳算を以て践祚したまふ。これより先、長州再征の役に將軍家茂大阪城に入るや、英・米・佛・蘭の諸國は、軍艦を連ねて大阪灣に入り、さきの假條約の實行を逼りたり。朝廷世界の現勢に鑑み、兵庫は京都に近きを以て、その開港を許さざりし外は、すべて諸外國との條約を勅許したまひしが、今や明治天皇践祚したまふに及び、間もなく兵庫の開港をも勅許したまひ、外國の交際はこれよりますます盛ならんとせり。
この時に當り、幕府は征長の失敗より、その威信全く地に墜ち、もはや内外の政務を處理する力なく、また諸藩の中にも、幕府を倒して、政令一途に出でざれば、たうてい綱紀を振ふ能はずと考ふるものあり。當時志を得ずして洛北に閑居せか岩倉具視は、豪邁にして識見に富み、はやくも時勢の推移を見て、薩藩の西郷隆盛・大久保利通、長藩の木戸孝允らと謀を結び、またこの頃太宰府に拘留せられたる三條實美らと氣脈を通じ、いよいよ討幕の密議を進めて、薩・長二藩は遂にその密勅を拝するに至れり。
前土佐藩主山内豊信(容堂)はこの情勢を見、若し内亂一たび起らば外患これに乗じて到るべきを憂へ、その未だ發せざるに先だち、將軍をして大政を奉還せしめ、平和の間に事を解決して、以て王政復古の、大業を樹てんと欲し、家臣後藤象二郎らをして、これを京都二條城に滞留せる將軍慶喜に建白せしむ。慶喜も王政を復して政令一途に出でざれば、たうてい諸外國と對立すること能はざるを察し、直ちにこの勸告を納れ、上表して大政を奉還せんことを奏請せり。天皇すなはちこれを嘉納したまふ。時に紀元二千五百二十七年慶應三年十月十五日なり。家康將軍となりてより十五代二百六十五年にして、江戸幕府こゝに亡ぶ。實に頼朝武家政治を創始せしよりおよそ六百八十年を經て、大權再び朝廷に歸し、はじめて王政の復古を仰ぎたりき。
慶喜の大政を奉還するや、會津・桑名をはじめ譜代大名の藩士及び舊幕臣中には、なほ徳川氏の恩誼を思ひて、心ひそかにこれを喜ばざるものあり。加ふるに慶喜の少しも朝廷の新政にあづかることを得ざる上に、かへつてその辞官・納土の命を受くるに及び、これを憤慨するものますます多く、かくの如きは薩・長二藩のはからひに出づるものなりとて、形勢甚だ穏やからず。慶喜力めてこれを抑へたるも、あるひは事變の生ぜんことを虞れ、急に二條城を出でて大阪城に退けり。されどなほ衆情を鎭静すること能はず、明治元年戊辰の年正月遂にこれらの人々に擁せられ、倒薩の表をさゝげて再び入京せんとせり。薩長の兵、その會桑の先鋒を鳥羽・伏見に迎撃して大いにこれを破る。また仁和寺宮嘉彰親王(小松官彰仁親王)は新に朝命を受けて征討大將軍となり、錦旗を陣頭にかかげてこれを追討し、まさに大阪に逼らんとしたまひしかば、慶喜は大阪城を出でて海路江戸に逃れ歸れり。
こゝに於て朝廷慶喜以下の官爵を削り、有栖川宮熾仁親王を東征大總督に任じ、西郷隆盛を参謀として、東海・東山・北陸の三道より竝び進みて、江戸を伐たしめたまふ。
慶喜すなはち上野の寛永寺に屏居して、ひたすら謹慎の意を表したれば、舊幕臣山岡鐵太郎は隆盛に駿府に會して、慶喜恭順待罪の事情を陳じ、隆盛の更に江戸に入るに及び、同じく舊幕臣勝安芳また親しくこれを訪ひて説くところあり。よりて大總督宮朝裁を仰ぎて、江戸の攻撃を停め、江戸城及び軍艦・銃砲を収め、慶喜を水戸に幽して、ついで田安家達をしてその後を嗣がしめられたり。
然るに舊幕臣の中に、慶喜の恭順を喜ばざるもの相會して彰義隊と稱し、輪王寺官公現法親王(北白川宮能久親王)を奉じて、上野に屯集して王命に抗せり。大總督府その解散を命ぜしかど、聴かざりしかば、大村益次郎ら官軍を指揮して、激戦の後遂にこれを潰敗せしむ、
これより先、會津藩主松平容保は幕府の恩誼を思ひて、奥羽・越後の諸藩と同盟し、若松城に據りて官軍に抗し、兵勢甚だ盛なりき。官軍すなはち奥州口及び越後口より進みて、ひとしく若松城を圍む。城中にては、老幼婦女に至るまで悉く軍に從ひ、死守して屈せざりしが、遂に糧盡きて城陷り、白虎隊の壮烈なる最期は今に世にたゝへらる。かくてその同盟諸藩も、またこれと前後して降り、奥羽地方やうやく鎭定せり。
この頃舊幕府の海軍副總裁たりし榎本武揚は、奥羽の諸藩に應援せんとし、舊幕府の軍艦數隻を率ゐて奥州の近海にありしに、若松城陷るに及び、大鳥圭介らと共に、會津の敗兵を合はせ、函館に走りて五稜郭に據れり。官軍海陸竝び進みてこれを撃ち、しばしば激戦を重ねたりしが、榎本ら力屈し、官軍の將黒田清隆の勸に從ひて、明治二年五月遂に出降りぬ。こゝに於て海内全く平定に歸せり。
これより維新の大業は一潟千里の勢を以て進展し、開國以来比類なき明治の大御代を現出したり。顧ふに幕府は晩年衰頽して實力を失ふこと年既に久しかりしに、内には、尊王の精神一般に發達し、外には外交の刺激ありて國民の奮起を促し、遂に王政維新の一大變革を見るに至りしものにて、これ畢竟朝廷の御稜威と國民の盡忠報國の至誠の致すとてろに外ならず。さきの大化の改新といひ、この維新といひ、共に短時日の間に行はれ、いづれも下より政權を奉還したるを以て、まゝ外國の政變の折に起れるが如き大なる紛亂を見ざりしは、國民の自覺が常に皇室を中心として展開するがためなり。されば吾人は列聖の盛徳と勤王志士の節烈を仰慕すると共に、また幕末佛國のひそかに幕府を援助せんとするに當り、慶喜が斷然これを拒絶して外國干渉の累を絶ち、以て圓満に時局の解決を告げたるの功、またこれを認めざるべからず。


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