第十七 東山時代の文藝
明國との通商は、莫大なる利益をもたらして、我が財政を助けしのみならず、またしきりに大陸の文物を傳へてわが文化に資せるところ少からず。鎌倉時代以来の禅宗は、室町時代にも盛んに上流社會に行はれしに、たまたまさきの宋僧祖元の法系を引けるものに臨濟派の名僧疎石(夢窓)あり。嘗て尊氏は吉野の朝廷に對抗して天下の紛亂をかもしたれば、佛事によりてその罪障を消滅せしめんとの素志あり。すなはち疎石の勸めにより、京都に天龍寺を建て、供養を行ひいて後醍醐天皇の御冥福を祈りたてまつり、なほ各國に安國寺利生塔を設けて、元弘以来諸國戦死者の亡霊を弔ひたりしが、これらはいづれも臨濟派にて、この法流を最も盛なりき。疎石の門に義堂・絶海の諸名僧あり、義満またこれらの禅僧を尊信し、更に京都に相國寺を建てて壮観を極め、京都・鎌倉における著名なる禅刹の順位を定めて、天龍・相國・建仁・東福・萬寿の諸寺を京の五山と稱し、さきに亀山上皇の建立したまへる南禅寺を以てその上位に置けり。ここに於て、當時の文化はこの五山を中心として大いに興隆しぬ。
これら五山の僧侶は幕府の外交にあづかり、當時の外交文書は多くその手に成りしが、また遣明使に充てられてしばしば彼の地に渡り、彼の大家と詩文を贈答して文名を顯ししもの少なからず。この頃明の禅僧はおほむね詩文に耽り、書畫・骨董を翫び、また儒學を兼修するの風ありしより、わが入明の僧徒もこの影響を受けて専ら彼の文藝を學びて異彩を放ちしかば、世にこれを五山文學と稱す。かの義堂・絶海は當時詩文界の双璧とたたへられ、その諷誦するところは明土に於ても模範・基格と推奨せらるる程なり。なほ義堂は新に朱子學を傳へ、漢唐訓詁の風を脱して義理・名分を主唱し、從来の漢學に一新生面を與えたりき。この他にも、禅林の學徒はいづれも文學に長じ、翰墨に親しみて、かへつて佛學心法を疎んずるの傾向さへあらはれたれば、深く禅要に通徹る大徳寺の僧一休は、宗風の頽廢を憤りて江湖に放浪し奇行を以て一生を終りき。
かくて當代の建築・技藝も、禅宗の影響を受けておのづから一種の趣を加へぬ。金閣は王朝の寝殿造に禅刹風を折衷したる三層の樓閣にして、銀閣は更にこれに禅僧の學問所たる書院造を加味したる重層の樓閣なり。それぞれ室内に金銀の箔を押して佛間の荘厳を添へ、上層檜皮葺の屋根には金銅の鳳凰を載せて頗る優雅の様を呈し、その庭園はいづれも林泉の調和、木石の配置妙を極めて閑寂の趣名伏すべからず。庭作の術もはじめてこの頃より發達して、中にも相阿彌斯道の達人と呼ばれ、銀閣の庭園はその作るところなりと傳へらる。殊に書院造は、この後の一般住宅の様式となりしものにて、すなはち入り口に玄關を設け、室内に畳を敷詰め、襖・明障子を以て間毎を仕切り、上段に床の間・違棚の設けあり。床に懸けたる畫幅は、枝振面白き挿花、香炉より薫ずる名香と相應じて、頗る雅致を極めたり。随ひて香道・花道の技も、このころより方式・作法などはじまり、現今諸流の根源をなしぬ。
かくて諸種の風流なる行事もこの頃より起こりしが、中にも義政は奈良稱名寺の僧珠光を聘して茶事を嗜み・東山殿東求堂内に同仁齋なる四畳半の簡素なる茶室を設け、深夜・暁天心静かに一服の茶をすすりて世事を忘れんとせり。ここに於て静寂・清淡を旨とせる茶道はじめて成立し、その流行につれておのづから鑄金・製陶業の發達を促し、筑前の芦屋窯など大いに世に珍重せらる。この後、祥瑞五郎太夫明に渡りて製陶術を習ひ、歸朝して肥前に伊萬里窯を開き、唐津焼の名はさきの瀬戸物と併稱せられしが、いづれも茶宴に適せしめんがために、淡泊・雅致を主として、新たなる手法を出すに到れり。
義政また書畫骨董を好み、支那より名畫・珍器を輸入し、日夜これを愛玩したれば、諸種の繪畫工藝ために興起せり。中にも繪畫は新たに宋元の畫流を傳へて、雄渾にしてしかも雅淡、究めて氣韻に富める特色を發揮して、よく禅味を好める當時の趣味に應じ、いわゆる東山時代美術の粋といはる。はじめ東福寺の僧明兆(東福寺の殿司たるより兆殿司と稱す)彼の畫風を學びて道釋人物の畫を善くし、同じく相國寺の僧如拙は水墨山水に巧なりしが、ついで雪舟この流を傳へて、入神技古今に卓絶せり。雪舟幼より天才の誉高かりしうへに、更に明に遊び彼の土の名山・大川を探りてこれを寫生し、その技人々を驚嘆せしむ。雪舟の推擧により宋元畫を以て義政に仕へたるものに狩野正信あり、嘗て東山の殿舎に畫きて名聲を揚げたり。その子元信は父の畫風を受けて雄健なる筆法を學びしうへに、當時土佐繪を中興せる光信の女壻となりて、その流麗緻密なる畫流を習ひ、遂に和漢の粋を抜きて別に一機軸を出し、畫くところは彩墨を併せ、流麗と氣韻とを兼ね、その畫風大いに世に行はる。狩野家代々法眼に叙せらるるを以て、元信は特に古法眼と稱せられて、永く畫界の景仰するところたり。かくて繪畫の發達に伴なひて諸種の工藝も進歩し、漆器は多く土佐繪の下繪により蒔繪を施して、優美艶麗の妙技を極め、また彫金の名工に後藤祐乗あり、狩野派の下繪によりて、刀剣の目貫・小柄・笄の類に精妙なる刀法を揮ひ、その彫刻するもの皆神采生動の趣ありき。
また當代新興の文藝としては、能樂・謡曲と連歌とあり。鎌倉時代に流行せし田樂はやうやく廢れて、猿樂しだいに盛んになり行き、おもに神事の際に演ぜられたりしが、中にも春日神社に屬せる名人に観阿彌・世阿彌の父子ありて、猿樂・田樂を折衷し、その卑俗なるところを捨てて、新たに荘重なる能樂を創始せり。これより能樂は大いに將軍義満・義政に賞翫せられ、遂に武家の式樂として盛んに行はれ、観世・寳生・金剛・金春の四座は永く後世に傳はる。しかして能に用ふる謡曲はおほむね古傳説を採りて、流麗なる辞句に綴られ、僧侶の手に成るもの少からず、無常の理を説き因果の説を述べて、多く佛教の思想を含蓄せり。また和歌は世と共におひおひ歌學に拘泥し、奥義・秘傳などを立てて萎靡振はざる情勢なるに當り、おほむね和歌に比して法式の自由なる連歌かへつて盛んになり行き、句句相承けて、転々百句・千句に及ぶものあり、僧宗祇出でて斯道を大成し、新撰つ玖波集を撰せしが、一生四方を周遊して自然を友とし、晩年東國にて病にかかり、箱根に療養して、その没するに至るまで須臾も雅友と唱和を絶たず。その弟子頗る多かりしかば、連歌は遂に都鄙・貴賤の間に広く流行するに至りき。なほ散文としては、吉野朝廷時代に名著あらはれ、兼好法師の徒然草は世事・人情を説きて教訓を與え、さきの枕草子と共に随筆の双璧と呼ばれ、國文の模範として後世に愛読せらる。また吉野朝柱石の臣北畠准后親房は謹厳なる史筆をふるつて神皇正統記を著し、我が神國の深遠なる由来を説きて、吉野朝廷が皇位の正統なる所以を辨ぜしが、これについで小島法師は絢爛なる筆致を以て太平記を作り、官賊の騒亂を寫せる間に諸忠臣の義烈をたたへ、正統記と共に大いに勤王の志氣を鼓舞しぬ。なほ九十二代伏見天皇の皇子尊圓法親王は書道に長じたまひ、はじめ行成の筆跡を襲へるいわゆる世尊寺流の書法を學びて別に一家を成し、新に豊富優麗の體を開きたまひ、前代以来往々宋元の書風を傳へしとは全く趣を異にしたれば、これより朝野の書風一變し、これを御家流と稱して永く江戸時代に及べり。
かくて當時の風俗は京都の華奢なる風のおのづから武人の間に浸染して、鎌倉時代の素撲を失ひしと共に、一面また禅宗の影響を受けて、瀟洒の氣品を帯ぶるに至れり。家屋は、一般の寝殿造廢れて雅致ある書院造普及し、武人の服装は直垂より變じて素襖となり、長袴を着せしが、遂には省略して肩衣・半袴にうつり行き、女子は小袖を打掛けて着ることはじまり、時代の推移につれ、おひおひ簡便なる服装に傾きしが、布地にはまま綾羅・錦繍の贅を盡くすものあり。食物の調理法も進歩して、四條・大草などの諸流あらはれ、料理の作法も定まり、宴饗の儀式をはじめ、すべての禮節おひおひに厳格になり行けり。
これを要するに、東山時代の文化は明の文化の影響著しく、殊に禅宗の感化を受けて枯淡清雅の特色を發揮し、しかも上流社會よりやうやく民衆の間に移りて、広く一般に普及するの傾向あり。庶民の教育は僧侶の手によりて行はれ、後世寺子屋發達の起源をなし、また眞宗・法華宗など大いに民間の信仰を得たりしが、中にも應仁の頃本願寺に兼寿(蓮如)出でて、貧苦の間に人となり、日夜心身を鍛錬し、加ふるに天性辨舌に長じ、諸國を歴遊して庶民を誘導し、到る處道場を開き、平易なる御文章を作りて門徒を誨へしかば、老少・男女歸依尊崇して私財を喜捨するものおびただしく、本願寺ここに再興せられて、以て後世に及べり。すべて當代の文化が永くその流風を傳へて、現代文化と密接なる關係を結べるは、特に注意すべきことたるべし。

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