第十五 室町幕府
足利尊氏はもと頼朝の跡にならひて鎌倉に據りて武家政治を開かんとする志なりしかども、吉野の朝廷に對抗するため自ら京地を去る能わず、遂に根據を京都に定め、鎌倉にはその子基氏を遣はし、關東管領として東國を鎭撫せしめたり。尊氏よりて政道の要を二階堂是圓ら有識の士に諮問し、建武式目十七條を定めて施政の基準となし、諸職を補任して制度もほぼ整ひぬ。されど公家との抗争に虚日なかりしうへに、その家風も亂れて骨肉相食み、尊氏・義詮父子は常に直義と善からず、部下の諸將も彼に走りこれに就きて互いに相戦ひ、紛擾絶間なかりしより、政綱未だ完備するに至らざりき。
然るに義詮の子義満年僅かに十歳にして家を嗣ぐや、その一族細川頼之義詮の遺嘱を受けてこれを補佐す。頼之は人となり謹厳にして才略あり、戒法三箇條を定めて近侍を戒め、また清廉の士を擧用して義満の師傅とし、孜孜としてこれを輔導したれば、足利氏の政綱やうやく完備しぬ。既にして義満、後亀山天皇の還幸を請ひたてまつりて多年の紛亂を一定し、はじめて征夷大將軍として幕府を室町に開き、これより大いに勢威を揚ぐるに至れり。
室町幕府の組織はおほむね鎌倉幕府の制度を襲ひ、多少の差異ありしに過ぎず。まづ將軍のもとに、さきの執權を廢して管領を置き、足利氏の元勲斯波・細川・畠山の三家かはるがはるこれに任ぜられ、三管領と呼ばれて幕政の首脳となる。その下に從来の政所・問注所・侍所の諸機關あれども、その所管はやや前と異なり、政所は財政・問注所は記録を掌りて共に昔日の權勢なく、侍所は軍事・警察を掌りて獨り勢力を占め、山名・一色・赤松・京極の四家その所司に任ぜられ、これを四職と稱せり。また地方にありては、鎌倉に於ける關東管領、恰も鎌倉時代の六波羅探題に相當し、最も要職にして威望を高かりき。その他鎭西・奥州の辺地にそれぞれ探題を置き、一般各地に守護・地頭を配せしは全く前代と異ならず。
かくて幕府の制度やうやく整頓するとともに、義満驕慢なる強族を誅鋤して大いに幕威を張れり。蓋し尊氏は諸將の力に頼りて武家政治再興の素志を遂げんとし、濫りに多大の領土を部將に與へ、力めて人心を収攬せり。ここに於て部將をこれになれて、ややもすれば強勢にまかせて足利氏に反抗するものありしも、これを抑制すること能はざりしに、義満に至りて能くこれを果せり。すなはち前には、山名氏清の一族が十一箇國の大封を領有して專恣なりしを討滅し、後には大内義弘がその功勞と富強とを恃みてやうやく驕傲なりしを除き、以て海内諸將の膽を寒からしめたり。また關東管領氏満・満兼の父子勢威を得るに從ひてとかく幕府の節度に從はず、ひそかに大内氏と通じたりしが、義満またこれを抑へて、幕府の威望いよいよ加りぬ。
かくて義満よろづ意の如くなるより、心やうやく驕りて豪奢に流れ、僣上の言動少なからず。義満は始より武家の家格を破りて朝廷の高官を拝せしが、將軍職をその子義持に譲るに及び、平清盛の先例を尋ねて、特に請ひて太政大臣に昇る。その入朝する毎に、公卿以下みな階を下り蹲踞してこれを迎へ、世に義満を尊稱して公方(もと朝家の義)といへり。義満のち官を辞し、落飾して道義と稱し、その叡山に上るや行列を上皇御幸の儀衞に擬し、また相國寺に七層の高塔を建て、その供養を行ふに當たりては、朝廷の御齋會に準じ、關白以下卿相をして扈從せしむるなど、驕慢もまた極まれり。殊に生涯華奢の限りを盡し、嘗ては室町邸に天下の名花を集め植ゑて花の御所とうたはれ、後、さらに壮麗なる別業を北山に營めり。いわゆる三層の金閣は、柱障・四壁・天井に至るまで、すべて金箔を押して光輝燦爛眼を驚かし、その林泉また幽邃の趣を極め、庭に麋鹿を放ちて鹿苑院の稱あり。當時多年亂離の後を承けて上下の疲弊の際にかかはらず、諸大名に課してこの大工事を起し、ために百萬貫の巨額を投じ、なほ諸寺建立のためにしきりに段銭を諸國に徴し、苛斂誅求、毫も國民の苦痛を顧みざりき。
義満についで義持・義量將軍職に就きしが、批政更に改らず、義量は早く薨じて嗣なかりしより義持の弟僧義圓還俗して職を嗣げり。これを將軍義教とす。時に關東管領足利持氏驕慢にしてみづから將軍職を望み、義教を軽侮してその命を奉ぜず。執事上杉憲實しばしば諫むれども聴かれず、かへつて忌まれて持氏のために討たれれんとせしかば、遂に上州に走りてこれを幕府に訴ふ。義教性剛毅にして夙に肅正の志あり、嘗て富士遊覽に託して諸將を率ゐて東下し、暗に管領家を威壓せしが、今や憲實を助けて持氏を討滅し(永享の亂)、やうやく他の強梁なる諸將を除き、一意幕威の振張をはかりしに、業未だ半ならずして赤松満祐のために害せらる(嘉吉の變)。ここに於いて管領細川持之は山名持豊(宗全)らの諸將をして満祐をその本領播磨に討たしめてこれを誅し、戦功によりて持豊らに赤松氏の舊領を與えしかば、これより山名氏再び世に顯はるに至れり。
義教逆臣の手に殪れてより、幕府の威武いよいよ衰へてまた挽回すべからず。もと足利氏は、大封を領有して強勢なる大大名を幕府の要職に据ゑて、政權をも併せ有せしめたれば、權臣跋扈して遂にこれを抑ふること能わざるに至りしは、實に必至の趨勢なり。加ふるに、武家が京都に居を占めて日夜公卿・僧侶と交流することとて、その環境はおのづから武人の特質を消磨せずんば已まず。殊に義満以来驕奢に耽りて國用多く、その財政の破綻はかの大名制馭法の拙劣と相待ちて、その弊はまさに將軍義政に至りて極まりぬ。
義政年僅かに九歳にして家を嗣ぎ、程なく征夷大將軍に任ぜられ、榮華の裏に育ちて得ん天下の治亂を顧みず、後、夫人日野富子らと共に、日夜驕奢遊宴を事とせり。從ひて嬖臣用ひられて批政百出し、功あるものややもすれば罰せられ、罪あるもの、かへつて賞にあづかることありしかば、當時「勘當に罪なく、赦免に忠なし。」との諺ありき。加ふるに、比年天災ありて五穀實らざるがうへに、悪疫流行して道路に斃死するもの多く、都下最も酸鼻を極めたるに、義政毫もこれを意とせず、室町第を修築して壮麗を極めたれば、第百二代後花園天皇深く叡慮を悩ましたまひ、御製の詩
賤民争採首陽薇、處處閉爐鎖竹扉、詩興吟酸春二月、満城紅緑為誰肥
を賜ひて義政を諷刺したまひしかば、さすがに義政も大いに恐懼し、ために暫く工役を停めたり。されど華奢豪遊の風なほやまず、あるひは糺河原の勸進能に、あるひは大原の花見に、行粧華美の限を盡くし、府庫頗る缺乏するに至れり。ここに於いて月に數回の倉役(質屋税)を課し、また前後十數度徳政の令を發して幕府の債務をさへ破棄するなど、暴政至らざるなく、諸國の領主またこれにならひて段銭・棟別銭など種々の税目によりて重税を課し、みづから奢侈に耽りしより、人民塗炭の苦に堪へず、處處に一揆を起こして掠奪をほしいままにするに至り、海内やうやく騒擾せり。
かかる間に大亂の禍根はやうやくきざし、足利氏の家督争を動機としていよいよ爆發し、當時最も權勢ある管領家細川勝元と四識家山名宗全とを黨首とし、海内の將士おのづから二派に分れて互に干戈を交へたり(應仁の大亂)。時に両氏の徴集に應じて京都に来集せる東(勝元)・西(宗全)両軍は、すべて二十餘萬の大衆に上りしも、いづれも將士に闘志なく、勝敗容易に決すべくもあらず。戦亂は紀元二千百二十七年第百三代後土御門天皇の應仁元年より文明九年に至るまで、前後十一箇年の久しきにわたり、公卿・武士の邸宅は素より、社寺の兵燹にかかりしもの甚だ多く、嘗て萬代を期せし花の都も今や蕭條たる一面の焦土と化しぬ。
かくて天下の事日にますます非にして將軍もはや如何ともすること能わず、義政これより一切の政務を放棄し、東山に別第を營み、ここに閑居して優遊自適を事とせり。第は山に倚り、瀟洒たる十數宇の殿閣數寄をこらせる園池に臨み風流いはんかたなし。義政ここに和漢の書畫・骨董を集めて愛翫し、茶會・聞香・立花などの風流・韻事を樂しみて、晏然として日を送りたれば、財政はますます窮乏し、人心いよいよ離畔して、幕府の威令毫も行はれず、社會の秩序を全く紊るるに至りぬ。

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