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             西本願寺 http://www.hongwanji.or.jp/  | 
          
佐賀組の巡番報恩講、 
令和7年の秋。
10月1日から五日間 お勤めすることが
できました。
尚、中心になってお世話いただいた総代さんは、
次の方々です。
北川 英俊
田中 久米太郎
川島 勝彦
大橋 勝義
梅崎 登
藤井 耕平
この他多くの皆さまのご協力でお勤めできました。
    
       さが 続古文書 こぼれ話
    
         佐賀新聞・平成13年 1月26日(金)10面 まちむらの話題
    
    
    花かつおで育てた若君
             佐賀の春日の局
    
     初代藩主鍋島勝茂をついで、次期藩主となるべき嫡男忠直は
    天然痘のため二十三歳の若さで亡くなりました。当時天然痘は多くの人が
    命を落とす恐ろしい病気でした。
     忠直にはまだ幼い子の翁介(おうすけ=後の二代藩主光茂)がいましたが、
    勝茂は次の藩主として忠直の弟直澄(なおずみ=のちの蓮池藩祖)を考えて
    いました。
    当時四歳の翁介を次代の藩主にすることは考えられなかったのでしょう。
    
     そんなある日のこと、江戸の佐賀藩邸に幕府の老中が招かれてやって
    きました。このとき勝茂は次の藩主として直澄のことを話そうと予定していました。
    そのときとつぜん翁介の養育係の乳母小倉が勝茂の許可も受けず、
    幼い翁介を抱いてあらわれます。そして「忠直の忘れ形見です』と翁介を
    老中たちに紹介しました。
    小城藩主の鍋島元茂と打ち合わせのうえのことでしたが、藩主勝茂を無視した
    手前、小倉の命をかけた行動だったのです。
    「このような御子があるとは知らなかった、よいお世継ぎがおありだ」という
    老中の言葉で翁介が次期藩主になるべき存在であることが、幕府に認め
    られたことになったわけです。
    
     小倉は翁介の養育に心血を注ぎました。食事には、無事育つよう干物の
    お汁と花かつおばかりを食べさせ、外出のときも花かつおを持っていき、
    取り出して差し上げたということが、『佐賀県近代資料』第三巻に出てきます。
    
     小倉は翁介が藩主になるのを見届けることなく亡くなりますが、小倉の
    働きがなければ、二代藩主は直澄がなっていたでしょう。あたかも将軍家光の
    乳母春日局に比すべき女性でした。(県立図書館近世資料編纂室)
    
    
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