第1127回 布施のこころ  ~執着のこころを取り除く~

 平成26年 8月28日~

「布施」という言葉は、サンスクリット語でダーナ、すなわち
「与える」という意味ですが、仏教では、単に物を人に与える
ということではありません。

一般に、私たちが、物を人に与えようとするときは、
「人がよろこぶから与える」「人がこまっているから与える」
「物が余っているから与える」というような場合です。

 しかし、仏教でいう「布施」は、必要以上に物を蓄えて、
むさぼるという執着のこころを、取りのぞくための修行なのです。

ですから、布施を行う場合には、なにを与えるかということを、
意識してはなりませんし、だれに与えるのかということも、
さらに、私が与えたというとらわれがあってはならないという、
きびしい条件がついています。

「物」は本来、善でも悪でもありません。

しかし、私たちの思いが加わるとき、それがみにくいものともなり、
人をよろこばせるものともなるのです。

仏教では、そうした物への執着のこころをいましめて、
こころから布施を行なうことをすすめているのです。

 また、布施は、お金や物が豊富にないとできないものではありません。

「無財の七施」といって、だれにもできる布施があることを
教えています。

たとえば。 ①人にやさしいまなざしで接する布施、
②にこやかに人に接する布施、
③人にやさしい言葉をかける布施、
④人に礼をつくして 接する布施、

⑤愛情のこもったこころで接する布施、
⑥人に座席をゆずる布施、
⑦人をあたたかく家にむかえる布施です。


 このような布施なら、私たちの心掛けしだいで、
いつでもできることです。

 今の世の中、人と人とのあたたかい関係がうすれ、
孤独感を味わうことが多くなってきました。
もっぱら、利害関係が中心になっています。


こんなときこそ、布施のこころは、福祉を支える精神として、
最も大切にしなければならないものでしょう。

 自分の利益のみを追い求めるこころを反省し、

少しでも布施の行ないをさせていただくのが、
仏教者として、念仏者としての、つとめといえるでしょう。

            本願寺出版社刊 朗読法話集1より


         


           私も一言(伝言板)