第1115回 「他力」と「自力」の違い

 平成26年 6月5日~

「自力」を認める宗派では、たとえば、救われるためには

全部で百の功徳が必要であると仮定して、私たちがお念仏を申すのは、
その百分の一くらいの力と考えます。


私たちは百分の一の功徳しか積めません。
このわずかな努力が「自力」です。

仏様は そんな者をあわれにおぼしめして、百分の九十九の功徳を
本願力によって加えてくださるというのです。
これを「他力」と理解されるのです。

百分の一の自力と、百分の九十九の他力、これを足して

「百」にして救いが成り立つといわれるのです。
ですから、百パーセントの他力という考え方はありません。
念仏するのは私の努力ですから、「他力念仏」という言葉も成り立ちません。

こういえば、わかっていただけるでしょうか。
私の自力はほんの少しで、仏様のおたすけの力が大きい関係を他力だと。
逆に、百分の九十九までを自力で積める人であっても、
やはり百分の一は 仏様に助けていただかないと、仏様の世界には往けない。


こういう自力が多く、他力が少ない関係を、「自力の教え」というのです。
ここには百パーセント他力も、百パーセント自力もありません。

 元来、一般的に「自力」とは、文字通り自分の努力を意味していました。

「他力」は、他の者がたすけてくれる力のことです。
仏教でも、もともと自力と他力を、そのように使う傾向はありました。

しかし、法然聖人と親鸞聖人は違う使い方をされたのです。
中でも親鸞聖人は、私の努力を自力といい、仏様の援助を他力とは
決して理解されませんでした。

聖人は「他力不思議」とおっしやって、私が少しでも
仏法に関わることが恵まれたならば、そのすべては 阿弥陀仏の
私を救おうとされる、おはたらきであると いただかれたのです。

 親鸞聖人は私がお念仏しようと励むことも、声に出して
称えようとすることも、他の用事をさしおいてでも仏事に関わろうとすることも、
そのすべてが阿弥陀仏のおはたらきだと いただかれたのです。
それが親鸞聖人の他力の考え方です。

 親鸞聖人は念仏するのは私の仕事、それをたすけるのが仏様の仕事、
とは決していわれません。

私が今日あること、そして今、私が仏法に関わらせていただいて、

一生懸命努力するようになっていること、そのすべてが
仏様のお手柄であって、私の力などまったくないと、聖人は
いい切っていかれるのです。

「他力」の教えとは、仏様に関わってから救われようとするのではなく、
いま関わらせていただいていること自体が、すでに尊い救いの実現なのです。

 探求社刊 天岸浄圓師著 浄土真宗の生き方 より


         


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