第1116回 大きな視線

 平成26年 6月12日~

日本人は基本的に、世界からの目線というものをものすごく鋭敏に感じ
ながら生きているわけです。

つまり、自分はこうやるというのではなくて、他の人からどういうふうに
見られるかということをたいへん気にしながら生きている。

それは文化人類学者のルース・ベネディクトが『菊と刀』の中で、
日本文化は「恥の文化」であって、西洋キリスト教社会の「罪の文化」とは 
大きく異なっていると論じた部分でもあります。


ただ、その場合に、誰から見られているのかという構造が、
現代とその前の時代とでは、ちょっと違っていると思うのです。

少し前までは、阿弥陀様であったり、すでに亡くなったご先祖さまや
恩師であったりと、現実に生きている人間社会をこえた次元からも
見られているという意識があり、そういう人たちから見られて
恥ずかしくないように生きるということだったわけです。

たとえば、人々の間の意識としても、うちの家業のうなぎ屋は一回も

産地偽装なんかしなかったし、このタレは変なものをぶち込んだりもしなかった。
そうやってご先祖さまたちが何十代にもわたってこの暖簾をちゃんと守って
きたんだと、そのことに誇りを持って生きているような人がたくさん
いました。

つまり、日本人の恥の感覚というのは、いま周りにいる人たちに対して
恥ずかしいという感覚だけではなくて、その前の人たち、今は

もう亡くなっているかもしれないし、その方の名前は知らないかもしれな
いけれど、そういう見えないものからの視線に対しての感覚でもありました。

そして、阿弥陀様が見てくださっている、大日如来がおわしますと
ったような、大きな世界視線というものがあったように思うんです。


その部分がなくなって、今ここにいる人たちの目だけが気になるというふうに
縮小してしまったわけです。


 その結果、たとえば会社で、今まで一緒に働いていた人から、
「おまえは業績が上がらないから、もう要らない人間だ」と言われたときに、

自分を支えるものが何もなくなってしまう。

目の前の人間からの拒絶がすぐに全世界からの拒絶につながってしまい、
それこそ自殺へと追い込まれてしまうような絶望へとつながってしまう。

小学校や中学校とかでも、四〇人の同級生の中に、いじめっこが五人くらい
いていじめられる。

残りの三十五人は、「いじめはダメだ」と言ったら、次は自分かいじめられますから、
その五人の後ろ側に回って、いじめを止めようとしない。

そうやって四〇人全員からいじめられ、「汚い」とか「臭い」とか言われると、
もう世界に自分を支持してくれるもの、温かい目で見てくれているものは
誰もいないんだということになって、やはり自殺や閉じこもりに追い込まれて
しまいかねない。

つまり、現代の日本人の「生きづらさ」と世界の縮小という文化・宗数的な
問題は大きな関わりを持っているのです。


 やはり日本人は、誰かに見られているという、
その感覚自体を変えることはなかなかできないのではないかと思うんです。

ただ、昔の日本人は、大きな世界の大きな目線で見られている、今はもう
ここに存在していない人も私を見てくれているんだということが励みになり、
誇りとなっていた。


しかし今は、その世界が縮小してしまって、誰かから見られていることが
励みにも誇りにもならないどころか、逆に自分をがんじがらめに縛りつけ
るものになってしまっています。そこがすごく大きい問題ではないかと思います。


今、ここに生きる仏教 平凡社刊 上田紀行氏の発言


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