第1110回  聴 と 聞  〜聞くことが そのまま信心〜

平成26年 5月 1日〜

 聞くということについて、昔から浄土真宗では
「聴聞」 ということが 大切であるとされてきました。

この 「聴」 と 「聞」 とは どちらも、「きく」  ですが、

少しニュアンスが違うと言われています。

 「往くを 聴といい、来るを 聞という」 ( 『大漢和辞典』 ) とあり、
こちら側から 「ききに往く」 のを 「聴く」 と表します。

例えば、お医者さんの聴診器は、患者さんの体内の音を 外から
聴きに往くものです。
反対に、向うから 「きこえて来る」 のを  「聞く」 と表します。

かつて、華道・茶道などと共に盛んであったものに 香道がありますが、
香道では、お香の香りを 嗅ぐとはいわず、「香を聞く」 と言います。
向こうから仄かにただよってくるから、「香を聞く」 というのでしょう。

浄土真宗のみ教えは、「聴」 がなければ始まりません。
阿弥陀仏の本願の教えを、こちら側から 「ききに往く」 ということが
なければ、教えの内容がわかりません。

聴かなければ始まりませんが、「聞」 こえてみれば、
聴いたからではなかったと知らされるのです。


 私たちは普通、自らが 「ききに往く」 というヽことを積み重ねた結果、
何らかのものが 聞こえてくると考えます。

けれども、阿弥陀仏の本願のはたらきが 私に届いているということが、
「聞」 こえてみれば、私が聴いた功績、私が積み重ねた結果によって
ではなく、最初から すでに私のところに 本願のはたらきが
届いていたと気づかされるのです。

ですから、聞こえてみれば、私が聴いたからではなかった。最初から
私に届いていたと知らされるのです。

聴聞は、自分の行った功績の程度によって結果が与えられるという
論功行賞的なものではないのです。
「これだけのことをしたから、これだけの結果が得られる」 という
人間的な はからいが なくなったところに、
向こうから恵まれてくるのが 浄土真宗の信心なのです。

だからこそ、親鸞さまは 「信心といふは、すなはち本願力回向の
信心なり」 と述べられているのです。
       (はじめての親鸞さま 森田真円著)



「聞即信」 浄土真宗における 聞と信との関係を表す言葉です。
聞くことが そのまま信心であり、聞のほかに信はないということ。

第十八願成就文には 「その名号を聞きて 信心歓喜せんこと、
乃至一念せん」 (聞其名号信心歓喜乃至一念) とあります。

親鸞聖人は 「 聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて
疑心あることなし、これを聞といふなり。
信心といふは、すなはち 本願力回向の信心なり 」 と(信巻)にあり、

「 聞くといふは、本願をききて疑うこころなきを 聞といふなり。
また きくといふは、信心をあらはす御のりなり。
信心は 如来の御ちかひを ききて 疑うこころのなきなり 」 と
(一念多念文意) に述べておられます。


        


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