第1111回 耳で聞く 如来の慈悲  〜誰でも受け取れる〜

 平成26年5月8日〜

 ものをいただくとき、普通、手で受け取ります。
お土産やプレゼントなど、いただくと嬉しいものです。
ものに託された相手の心が伝わってきます。

しかし、手でいただいたお土産は食べたらなくなりますし、
もらったお小遣いは使ってしまったら後に残りません。

 ものを受け取るのは、手だけではないのです。
形がないのでもらったという気がしませんが、耳で受け取る

場合があります。

誰かから自分の行いや業績を褒められてごらんなさい。
少々の金銭を受け取ったことに倍する満足感を味わうことができます。
あるいはまた逆に、自分を侮辱したり過小評価されますと、一生忘れる
ことのできない憎悪となって私の心のなかに蓄えられます。

 このように人間の精神的状態は、耳から受けとること、

すなわち聞くことによって、大きく左右されるものなのです。

 如来の慈悲の結晶である名号は、手では受け取れません。
耳で聞いて受け取るのです。
受け取ると言えば能動的に感じられるかも知れませんが、
耳は本来、受動的な器官で、自分の意志とは無関係に、
嫌でも聞こえてくるものです。

 耳から入った名号は、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩で濁りきった
私の心のなかに根を下ろします。

煩悩のどぶは、名号にとって、極めて適地であります。
どぶを養分としながら、濁りに汚染されない信心の華を咲かせます。

また、この華は、よい匂いを周辺に漂わせます。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」の 称名は、信心の華から
こぼれ出る匂いなのです。

名号は、ただの六文字ですが、それは如来の真実心ですから、
底知れない煩悩のなかに入って、それを信心に変えてしまうのです。

 如来の慈悲である名号は、聞くこと以外に受け取る方法はありません。
聞くことによって、誰にでも受けとることが出来ます。

学問の有無、社会的地位の高低、年齢の多少に関わらず、
誰でも聞くことができ、心に大きな安らぎを得ることが できるのです。

ただ、聞くといっても、音波を鼓膜に感ずることではありません。
声を通して向こう側の心情を受け取るのですから、
名号は誰のために、どういう手続きをとって完成されたもので
あるかを聞いて、大きなうなずきを得るのです。

ですから、書物を読んでその奥にひそむ心情を読み取ることも、
聞くということができます。

このような営みを聞信、聞即信、あるいは信心獲得というのです。

信心といっても、名号のいわれを聞くことの他にはないのです。

 本願寺出版社刊 霊山勝海師 やさしい真宗講座 〜み教えに生きる〜
      「聞信 如来の慈悲を聞く」より



        


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