第1091回 大悲 (だいひ)  藤澤量正師 仏教語のこころより~

 平成25年 12月19日~

 かつて『天の夕顔』で多くの読者を得た中河輿一は
「愛は惜しみなく与う」という文章を発表しました。

また幾多の名作を残した有島武郎は、「惜みなく愛は奪ふ」

というエッセイを世に問うて、世間の注目を集めたことは、
よく知られているところです。


 愛は、たしかに「惜しみなく与える」 という美しさを
持つことは誰も否定はしないのですが、反面「惜しみなく奪う」
という醜さを持ち合わせているのも事実です。

人間の世界では、愛が成就されなければ憎悪と
変わるかなしさを持つことを思えば、人は、愛憎の
くり返されるなかで生活を営み、苦悩していると言えるのです。

仏教では、貪愛・渇愛・欲愛などといろいろ語られていますが、
いずれも執着や欲望をあらわす煩悩であることに変わりはないのです。

 それに比べて慈悲には、奪う、憎む、恐れる、
ということを持たない至純なこころが流れています。
本来、慈は友愛をあらわし、悲は呻きとか同感のつぶやきを
あらわすことばと言われ、「苦を抜き楽を与う」ものであると
説かれています。

 浅原才市翁は、


苦をぬいてくださる慈悲がなむあみだぶつ
苦をぬかずともくださる慈悲がなむあみだぶつ

と詠っていますが、これこそ如来の慈悲そのものを
的確にあらわしたものだと言うことができます。

 いま大悲とは、まさに仏の大悲心のことであって、
大という文字が用いられてあるのは、底知れない
仏のめぐみをあらわしているのです。

あらゆる手がかりをもって一切の衆生を救う
その広大無辺のすがたを大悲心と呼ぶ以上、
それは如来の心を措いて他に求めることはできないのです。

その大悲が名告りとなって、その声に私たちが喚びさまされた
ときにこそ「苦をぬかずともくださる慈悲」に安住できる身となるのです。
苦があって苦が越えられる道を得た人生、それを無碍というのです。


 何年か前のことです。北九州市のお寺にご縁を結んだとき、

大悲無倦みぞれのなかをひとりゆく

という俳句を見せてもらったことがありました。
東大を卒業したばかりの一人息子を事故で失った

元小学校長の作品であるということでありました。

 この句を詠むと、作者は、愛別離苦のなかで、慟哭し、
苦悩し、孤独にさいなまれた幾夜かを過ごしたことであろうと

想像されます。

しかし、そのきびしい現実に立って「大悲無倦常照我」(「正信念仏偈」)の
ことばに遇うたに違いないのです。だからこそ、

おらにゃ苦があって、苦がないだけのう


と口ぐせに言っていたという因幡の源左同行と同じ心境を、
この句の作者も持つに至ったのだと思うのです。

 まことに如来の大悲は、常にこの私を喚びつづけ、
照らし護りたもうと知らされれば 「身を粉にしても、
骨をくだきても」 謝すべきものであります。

   藤澤量正師 仏教語のこころ 「ことば」 より

 妙念寺電話サービス 次回は 12月26日に新しい内容に変わります。

         


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