第1090回 煩悩 (ぼんのう)  ~仏の種 救いの目当て~

 平成25年12月12日~


 一般に、動物は本能のままに生きているといわれます。
しかし人間は煩悩を抱えながらその生が続けられているのです。

例えば、空腹を覚えて食物を求めるのは本能ですが、
あれが食べたいとか、これを食べることにしようと選びを持つのは
煩悩のなせるわざです。

その行動に思慮分別がはたらき、予見を持ち、好悪の感情に
動かされ、過去への執着が断ちきれないもの、それが煩悩を
心の土台としている人間のすがたです。

 煩悩ということばは、クレーシヤという原語から来たもので
(かき乱す〉という意味です。
状況によって身を煩わし、何かにつけてつねに心を悩ますもの、
それが煩悩です。

思考力のない動物一般には煩悩はなく、人間のみは誰彼の
区別なくそれを生まれながらに持ち合わせているのです。
煩悩具足人とか煩悩成就の凡夫といわれる所以です。

 よく知られた煩悩としては、貪欲・瞑恚・愚痴の
三毒の煩悩があり、これに僑慢・疑・悪見を加えると
六大煩悩となります。

さらに少しでも気に入らぬことがあると表情などがかわる
忿」という随煩悩もあり、相手に欠点を見せまいと
自己を守ろうとする「覆」という煩悩などを数えあげれば、
百八の煩悩とも八万四千の煩悩ともいわれるほどに数多くあるのです。

そのような煩悩のしがらみから脱け出ることができないために、
人はつねに苦悩を背負い罪をつくりながら生きてゆくのです。

煩悩のことを「惑」と称されるのも、真実を見抜く力を持たず、
つねに戸惑いを持つ状況に置かれているということでありましょう。

 大阪の念仏詩人といわれた榎本栄一さんに、

私の泥んこの底が
浄土の入口になっていた

という短い詩があります。
この「泥んこの底」とは、おそらく自分を取りしきっている煩悩と、
それ故にこそ罪業の明け暮れを余儀なくされる自己のかなしいすがたを
表現したものと思われます。

それがなぜ「浄土の入口になっていた」といい得るのか、
ここに極めて大事な問題があると思われるのです。

 この詩人は「浄土の入□になっていた」と過去完了形で表現しています。
それは、如来がこのわたしたちのすべてを見抜いて誓願を立て、
煩悩ある身をそのままに救いとる願力をすでに成就して、
まちがいなく浄土へ迎えとらんとされていることを示しているのです。

まさに「不断煩悩得涅槃」(正信念仏偈」)といわれるべきものであります。

 蓮如上人が、
願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、
仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり (「正信偶大意」)
と示され、聖徳太子が

塵労を如来の種と為す (維摩経義疏」)

と語られたのも、このことを如実に示すものといえます。
「塵労」 は心を汚し疲れを持たせる状態を塵に喩えたものです。
そのような煩悩すらもまさに仏の種であり、それが救いの
目当てであったと知らされるのです。

 藤澤量正師 仏教語のこころ 「ことば」 より

 妙念寺電話サービス 次回は 12月19日に新しい内容に変わります。

         


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