第三十八 歐洲の大戦と我が國
明治天皇及び昭憲皇太后の諒闇終るや、大正四年十一月、大正天皇即位の大典を京都の皇宮に於て擧げさせたまふ。すべて先帝欽定の登極令の規定によりて行はせられ、儀禮全く國風に復し、古来の即位禮に一新紀元を劃したるものにて、未曾有の荘重森厳を極めたりき。この日また特に恩赦の令を布き、養老賑恤の御沙汰ありて、あまねく慶祥を萬民に頌ちたまひ、大正の盛世はいよいよ歓喜に満ちて洋々たり。
かゝる折しも、たまたま歐洲に於て大戦亂勃發せり。當時歐洲の形勢を観るに、ドイツには、さきに有名なるビスマルク(Bismarck)出でて自國の發展をはかりしより、國力いよいよ充實し、大いにその海軍を擴張して、從来世界に覇を唱へたる英國の海軍に拮抗せんとするに至り、またその國内に於ける工業の發達は、漸次世界の市場より英國の商品を駆逐せんとするの勢を呈せしかば、英國はためた頗る脅威を感じたり。然るに佛國は、かつてドイツと戦ひて敗れ、その屬州アルサス・ロ−レン(Alsace, Lorraine)の二州を奪はれたるより、永く國辱を忘れずして、事毎にドイツと反目し、復讐の念しきりに燃え、また露國は歐洲に散在せる同民族を統一せんとし、ドイツの同民族統一の理想と相對立せり。されば英・佛・露の三國は互に協商を結び、これらと利害の關係にて両立せざる獨・澳洪及びイタリヤの三國同盟に對抗し、ここに二大勢力相對峙して、おのづから歐洲の大勢を支配し、両者の衝突はたうてい免るべからざるの數なりき。
たまたまバルカン(Balkan)半島のセルビヤ(Serbia)地方の人民はロシヤと同民族にて、常に露國の後援を得たりしに、墺國は、露國が日露戦争の失敗によりその勢の頓挫せるに乗じ、この地方に壓迫を加へしかば、セルビヤの志士は協會を作りて、墺國の勢力を排斥せんと企て、その皇太子フランシス、フェルヂナンド(Francis Ferdinand)大公を暗殺せしより、こゝにこいよいよ大戦の烽火は揚りぬ。すなはち獨はセルビヤを伐たんとする墺國に加擔し、露はセルビヤを助けんとし、佛・英の両國これと結びて、互に兵火を交ふるに至れり。その後イタリヤ・アメリカ合衆國などもドイツ側と國交を斷ち、トルコなどはドイツ側に組して共に戦に参加したれば、戦局はいよいよ擴大し、歐洲大陸は勿論世界の海上及び植民地にも波及して、空前の大戦となれり。
開戦の初、ドイツはその租借地たる膠州灣に於て日夜兵備を修め、その艦艇しきりに東亞の海洋に出没して、我が國及ひ與國の通商貿易を妨害し、東洋の平和はまさに危殆に瀕せり。よりて我が國は日英同盟の好を重んじ、東洋の平和を確保するために、ドイツに勸告するところありしも、應ぜざりしかば、やむなく大正三年九月二十三日、國交を斷ち、天皇宣戦の大詔を發したまへり。
こゝに於て、海軍中將加藤安富の率ゆる第二艦隊は直ちに進みて膠州灣を封鎖し、陸軍は陸軍中將神尾光臣統率の下に、その先遣隊九月に入りて山東省龍口に上陸し、即墨に向って前進し、また一隊は勞山灣に上陸して、互に連絡を保ちて背面より青島の攻圍を進め、英國軍もまたこの軍に参加せり。かくて我が軍ますます青島に迫り、至仁至慈なる天皇の聖旨を奉じて、青島在留の非戦闘員を救ひ出したる後、いよいよ海陸協同して總攻撃を開始したるに、水陸防備の堅固を以て誇りし青島の要塞も、遂に十一月七日を以て全く陷落し、要塞總督ワルデック(Waldeck)以下悉く我が軍に降りぬ。この、役無線電信はしきりに通信に用ひられ、我が海陸両軍の飛行機は始めて實戦に活用せられ、大いに功績を擧げたるは未曾有の事なりとす。この間に我が艦隊の一部は、遠く南洋に進みて、マーシャル・カロリン・マリヤナ・パラヲ・ヤップ(Marshall, Caroline, Mariana, Palau, Yap)などドイツ領の諸群島を占領して、東洋に於ける敵の根據地をくつがへせり。
然るにまたドイツの艦艇は、印度洋・地中海などに於て、みだりに各國の商船を撃沈して、幾多の良民をそこなひて、暴威をほしいまゝにせしかば、我が艦隊は遙かにこの方面にも出動して、警戒護衞の任に當り、種々の艱苦を冒して勇敢に敵の暴行をおさへたり。なほ一方に、我が赤十字社は、醫師・看護婦らを遠く英・佛・露の諸國に派遣して戦傷病者を救護せしめ、よく博愛の精神を發揮しぬ。
かゝる問に、露國にては、突然革命勃發して、單獨にドイツと講和を結びたり。されど、英佛など聯合軍は、ますます力を合わせてドイツに當りしかば、大正七年十一月ドイツ遂に力盡きて和を請ひ、前後五年に亙りし空前の世界大戦はここに終熄し、聯合國の全權委員パリーに集りて平和會議を開けり。かくて獨・墺・洪などの諸國に對し、軍備の制限、領土の處分、損害の賠償などを議定し、大正八年より九年に亙りて、聯合國とこれらの諸國との間に、それぞれ平和條約調印せらる。我が國は、西園寺公望・牧野伸顯らの委員をこの會議に参列せしめ、英・米・佛・伊の諸國と共に、世界に於ける五大國の一として、種々の重要會議にあづかりしが、條約の結果、我が國は膠州灣及びドイツが山東省に於て有せし一切の權利を得、我が占領せる赤道以北の舊ドイツ領の南洋群島を統治する委任を受くるに至れり。
なほこの大戦の慘禍に鑑み平和會議の折、アメリカ合衆國大統領ウイルソン(Wilson)の提議により、各國間の紛議を解決して戦争を未發に防止し、以て國際の平和を保つために列國の間に國際聯盟の規約を定むることとなり、平和條約中にこれを加ふるに至れり。よりて我が國もこれに加盟し、爾来常任理事國として、大いに世界平和のために努力し来りぬ。
かくの如く列國皆平和に汲々たりしも、擾亂の餘波は全く収るに至らずして、國際關係またおのづから安からざるものあり。大正十年アメリカ合衆國の主唱により、世界平和確立のため、軍備制限及び極東太平洋問題に就きて、關係諸國はワシントン(Washington)に國際會議を開きたり。我が國よりは、海軍大將加藤友三郎ら使節として参列し、英・米・佛・伊の委員と共に、その十一月より翌年二月に亙りて協議を重ねたる末、海軍軍備の制限に關する條約定められ、英・米は五、我が國は三、佛・伊は一・七五の比率によりて、各國の主力艦の噸數を制限することとし、なほ太平洋島嶼防備にも制限を加へたりき。
この時我が國は、英・米・佛の諸國と共に、更に四國條約を結びて、太平洋方南に於ける各國の屬島・領島に就きて紛議の生ずる時は、共同してこれを解決すべきこととせり。蓋し近世歐米諸國に於て工業著しく發達し、列強はその製品の販路を世界の各地に擴めて、各々自國を富まさんと謀りて、しきりに植民政策を施したるが、その活動は大いに東洋に於てあらはれたり。さきにポルトガル・イスパニヤについで東洋の諸島に活躍したるオランダの勢力はしだいに英・佛・米など新進の國々のために駆逐せられぬ。まづ英國は、はやくより印度を經營し、更にオランダと植民地を交換してマラッカ(Malacca)を得、ついで清國と阿片戦争に勝ちて香港を得、日清戦役の後に威海衞を租借して、おひおひ根據地を東方に進め、また南方にてはオーストラリヤの經營をはじめ、ボルネオ・パプア・ニュー、ジーランド(Brneo, Papua, New Zealand)及びポリネシヤ(Poynesia)群島中の多數の島嶼を占有して、極東太平洋上に至大の勢力を占めたり。佛國は、まづタヒチ島・ニュー、カレドニヤ島(Tahiti, New Caledonia)を占有し、ついで交趾支那を取りて、遂に今の佛領印度支那と成し、日清戦役の後は廣州灣を租借せり。アメリカ合衆國は、サモア(Samoa)島を分割し、ハワイ(Hawaii)諸島を併合し、イスパニヤと戦ひてフィリピン(Philippine)群島・グアム(Guam)島などを割譲せしめ、太平洋上に根據を得るに及びて、大西洋と連絡するためパナマ(Panama)運河を開鑿し、着々東洋に活動の歩を進めたり。獨り我が國は、嘗て徳川氏の鎖國政策により、海外の發展を阻止せられしため、永く驥足を伸すこと能はざりしに、今や舊ドイツ領たりし太平洋諸島中、赤道以北のものは我が統治に歸し、赤道以南のものは多くオーストラリヤの統治するところとなりしより、太平洋上に於ける列強の領土はますます交錯して、その關係一層複雑となり、ややもすれば紛議のその間に生ずるなきを保せず。これ新に四國條約の結ばれたる所以にして、これによりかねての日英同盟はここに廢棄せられぬ。
これより先、大正十年三月、皇太子裕仁親王は、閑院宮載仁親王を伴なはせられて、歐洲御巡遊のため、萬里の御旅程にのぼらせたまふ。それよりおよそ半歳の間、英・佛・白・蘭・伊の諸國を巡り、各國の元首を訪ひて親交を重ねたまひ、また諸國の學藝・産業の實際より、大戦後の社會情態を親しく御観察あそばされて、一路平安に還啓したまへり。實に皇太子の世界御巡遊は、未曾有の盛事にして、到るところ國光を發揚したまへり。
時におそれ多くも天皇御病にかゝらせられ、御悩久しきにわたらせたまひしかば、大正十年十一月皇太子攝政の任に就かせられ、天皇に代りて内外の政務を執りたまひき。然るに天皇御病いよいよ篤く、國民ひとしく熱祷を神佛に捧げて、御平癒を折りたてまつりしかひもなく、十五年十二月二十五月、四十八歳の御壮齢を以て遂に崩御したまへり。天皇の御治世は僅かに十五年に過ぎざりしも、内外特に多端なる際、明治天皇の御偉圖を繼承して、内に憲政を進め、外に帝國の威信を揚げたまひ、進みて世界の平和、人類の幸福のために、大御心を盡させたまひしかば、内外御盛徳を欽仰して、衷心より崩御を痛惜したてまつりぬ。


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