明  治  の  社  会  

は  じ  め  に

  このページは、今の時代と異なった明治の時代の各種の社会ニュース、出来事を掲載しております。年表では、詳しく掲載できない記事です。、今では考えられないもの、もう消滅してしまったようなもの、ひょっとしたらまだ残っているもの、歴史の謎  等など、明治の雰囲気を味わってください。。

         
番号
掲載年月日
表 題
内    容
区 分
21
平成19年 1月10日
陸軍軍人の懐具合
明治時代の軍人の給与
 
   この時期は、昔は「春闘の相場」、今は格差と能力の時代のようだ。
戦前の少年の夢は、大将。 よく、2手に分かれ、戦争ごっこをしたものである。       
明治40年8月22日の佐賀新聞記事に、「陸軍将校の俸給」という記事があり、日露戦争直後の陸軍軍人の給与が掲載してあった。  
日露戦争で國を挙げて戦った軍人達の生活を偲んでみよう。なお一部金額が合わないところがあります。  
  階級    俸給   職務俸   計  単位:円  年俸
  大将    3000   3000   6000
  中 将   2000    2000   4000  
  少 将   1565    1575   3550
  大 佐   1116    1236   2352  
  中 佐    816    936   1752  
  少 佐    516    708   1252
  大尉(1等) 300    540    840
  大尉(2等) 300    420    720  
  中尉(1等) 228    312   540  
  中尉(2等) 228    204   432  
  少 尉   180    180   360
  これに、今の住宅手当のような、階級相応の宅料が付く  
  なお、徴兵された兵隊達は、1〜2等卒 1日4銭  1ヶ月当たり 1円20銭  
上等卒  1日5銭   1ヶ月当たり 1円50銭  
  一般兵隊達は、隊内生活のため、3食の食事つき 参考までに、巡査は 1月12円
社会
20
平成18年 8 月14日
扇風機の話題
明治時代の扇風機の話題
 
   毎日暑いですね。今は、事務所も、お店も、
家庭もクーラー依存の時代である。  
明治時代は、どうやって暑さを凌いでいたのであろう  
明治も、40年代になると、各地の主要都市には、
水力や火力を電源とする電灯が普及してきた。  
佐賀市も、広滝水力電気が41年10月に営業開始し、電灯が点いている。  
この頃は、扇風機は貴重品であり、電力会社が家庭や事業所に貸し出して、 定額の料金をいただく仕組みである。     
明治44年6月6日の記事に、「九州水力電気では、7月1日から9月30日まで、 例年のとおり、扇風機貸与の筈」の記事があり、おそらく、保証金を取り、貸出していたようである。  

  次に、扇風機の電力料金であるが、
当時は定額料金制度であり、
同じく15日の新聞には、3ヶ月10時間昼6円、夜間7円50銭、  
昼夜間13円、昼12時間7円、夜間9円、昼夜間15円、
扇風機の貸し出し予定は600台」、と掲載がある。  
公務員の初任給が12,3円の物価であるから、庶民は専らうちわ、 扇子。    お金持だけが扇風機の恩恵に浴していたようである。  
  庶民の家に、扇風機が登場したのも、昭和30年代の後半のような記憶が有る。 ご年配の皆さん、自宅に何時ごろ扇風機が座りだしたか、お孫さんに話してみましょう。      
社会
19
平成18年 6月16日
  明治の小学校は、裸足の天国

  「本県教育総会」 明治42年5月30日付け佐賀新聞 2面より  

   この記事は、明治42年頃の児童、生徒の裸足禁止に関する記事である。  
     この頃は、佐賀県内の小学校は、ほとんどが裸足であった。 他県からの教育視察者がこれに驚いた記事もあったくらいである。

   42年5月29日 佐賀県教育会総会が開催され、佐賀師範学校の張二男松教諭(トヨタ自動車の張富士夫元社長の祖父)が 「学校学童及生徒の跣足の可否」を提案し、会員が賛否両論述べたが、
  最後に田中佐賀衛戍病院長が中国、インドにおける裸足による伝染病の伝染を指摘し、賛成者多数で禁止が可決された。

    何時の頃から、佐賀県でも学童達の裸足の禁止が始まったのか、分からなかった。  
   私は、昭和17年生まれであり、小学校は、戦後に入学した。田舎でもあり、このころは、戦後の物資不足のため、 入学式、遠足以外は、冬でも裸足で通学した記憶がある。祖母が草履を作ってくれたことも、記憶にある、 しかし、雨の日には、足の後ろから次第に解けて最後は、消滅してしまった。
  運動会はもちろん裸足。物資難が落ち着くと、靴が少しづつ出回り、、ゴム草履も登場してきた。  
     特に、印象に残っているのは、地主や引揚者の同級生の女の子が靴をいつも履いていたことである。田舎の子供は、男女とも、ほとんど裸足であった。     
教育
18
平成18年 5月29日
  海軍志願兵の入営

  「採用海兵への注意」 明治42年5月19日付け佐賀新聞 2面より
    終戦までは、徴兵制度があり、日本国民は、徴兵に応じる義務があった。  
   陸軍と海軍の違いは、陸軍は、それぞれの県に常置の連隊区司令部がこれにあたる。  
   すべての20歳以上の男子を徴兵検査し、合格した者の中から、抽選があり、この当選者が入営する。  

     海軍は、志願兵制度を採用し、佐世保鎮守府の係官が、それぞれの職種に必要な適格者と人数を出張検査し、入営させる。  

   この記事は、海軍志願兵の入営に関する記事である。  

     海軍志願兵採用者は、来る31日午後三時までに、左の宿舎に到着の上、引率員に届出つべき筈に付き、遅刻せざる様出発し、 尚、宿泊中における取締方を左の通り定められれば、各自は能く心得置くべきとなり。    
   佐世保相生町 鍋島旅館(佐賀市郡、西松浦郡)     
   同市浜田町 三つ輪旅館(神埼、三養基、小城、東松浦郡、杵島郡、藤津郡)       

     海軍志願兵宿舎心得     佐世保鎮守府  
   1 所用ありて外出する者は、午後10時迄に必ず帰宿すべし  
   2 旧兵との面会談話は、必ず宿舎に於いてし、之と同行外出を禁ず  
   3 午後十時、海兵団より下士を派し、各宿舎を巡回せしむ           

     少し、解説すると、海軍の九州地方の毎年の志願兵の徴兵数は、500人程度であり、佐賀からは約90人が志願していた。  
   職種は、海兵、機関兵、楽団兵、司厨兵、大工、等である。  
   引率員は、県の兵事課の職員。   
   入営を前に、新兵達は、家族とのつかの間の時間を旅館で過ごす。  
   陸軍の場合は、人数が多いから、大変でもある。  
   母は、久留米の連隊に入営した父との面会に、連隊前の旅館に背中に赤子を背負い、歩ける子供達の手を引いて泊まったことをよく話してくれた。
  旅館の宿泊料は、協定の統一料金、また、この入営に必要な費用は、県費負担で、後、兵事課職員が留守宅に届ける。
  余談になるが、入営日の直前には、各遊郭は、満員御礼になるくらい、大賑わいする記事も散見される。軍隊は、男の世界でもある。
社会
17
平成18年 5月20日
  明治時代の猟奇事件「墓の盗掘」

  「またも人骨事件」 佐賀新聞明治42年より
   明治の新聞には、よく猟奇事件が登場する。
  その中でも、人骨の盗掘と服用は、おなじみの事件である。
  特に、頭蓋骨は、ある病気の特効薬のようであり、漢方薬の秘薬として高値でひそかに取引されている。

  某県のある男が、かねて人骨を自家製の丸薬に混ぜて販売していた。
  その地方は、墓地が砂質で盗掘が容易でもあった。
  中国では、人骨はいくらでも売れるから、100斤400円で買い取る。
  何万斤でも引き受ける。と長崎で契約し、早速、150斤を盗掘し、送った。
  ところが、荷物を保管した家では、
  その晩から多数の髑髏が枕元に現れ、「○○に帰りたい」と攻め立てる、耳元に囁く,胸の上に乗り、顔を抑える、喉を絞める、などなど。
  家人が発狂して病気になる。等、奇怪な事件が連続して発生、
  とうとう人骨は元の荷主に送り返され、事件も発覚した。
  
  霊の存在を信じるか否かは、本人の内心の問題であるが、私はあるのではないかと思っている。  やはり、先祖のお墓とか、遺物は大切にすべきである。

    少年の頃、墓の改葬の手伝いをしたことがあった。
  何しろ、祖先がかの有名な「虹ノ松原一揆」に関係したとか、しないとか、あるいは岸嶽城落城の落ち武者を祭っている等、古い家だから、たくさんのお墓があった。
  すべて掘り起こし、人骨が残っているものは、焼き、灰にして改葬した。
  あまり気持ちのよいものではなかった。
  この犯人は、夜な夜な薄明かりの中で、墓を掘り起こし、人骨を取り出しては、また元に埋め戻すことを繰り返していたのだろう。
  ああ、怖い。ああ、怖い。
社会
16
平成18年 5月15日
  NHK朝の連続ドラマ「純情 キラリ」に寄せて、PART 2 「西園寺教授の優雅な生活」

  「医者の収入」 佐賀新聞明治42年4月15日付け1面より
   桜子が上京し、再受験を期し、東京音楽学校教授の西園寺の自宅で、個人レッスンを受ける。
  その際、秘書か住み込みの書生が、当然のことのように、多額のレッスン料を受け取る。官立の先生がである。
  これを見ると、自宅は豪邸、秘書を雇っている。今の大学の先生達と雲泥の感がある。
  然し、当時は、これは当たり前のことでもある。
  
  
  それでは、この優雅な教授達の一端を紹介しよう。
  東京帝国大学の某医学博士は、給与が年俸1800円、 それに、自宅診察料月に2300円、往診料が゜月に550円、 合計一年の収入が3万6千円、公然と副業のできる時代でした。
  これは、大臣の収入を凌ぐ金額である。確かこの頃の大臣の年俸が6000円の時代である。
  これで、このシーンが理解できると思います。
社会
15
平成18年 5月 9日
  先生の給与の値上げ要求

  「本県辞令」 佐賀新聞明治42年4月16日付け2面より
   時々、辞令記事の中に、「00円給与願いにより、○○を免ず」という文面の記事が散見される。
  これは、どんな内容の記事か、よくわからないが、どうも当人が給与を上げていただきたいと願い出たが、
  当局が先生の力量ではとか、その他条件が合わなく、無理です。
  それではどうぞお辞めになってください。という主旨のようである。
  労働組合もない、給与水準の改定であるベアもめったにない、 定期昇給も数年に一度の時代であるから、当時は個人的な給与の値上げ要求は、各人が申請し、
  それを元に人事当局が判断する制度のようである。
  明治の時代は、能力主義の色彩が濃く、これも一例のようです。
  読者の皆さんは、この文面をどう理解しますか?
  また、当時は中学校などの先生が不足し、特に大学卒業の先生は引っ張りだこで、あまり再就職には困る時代ではなかったようです。
  この先生、助教諭心得ですから、大学卒業したてのピチピチで、また文部省の庶務課に履歴書を送ったか、母校の先生に就職の依頼をしたと思います。

   佐賀中学校 助教諭心得 ○○太郎
   月俸23円給与願いにより、佐賀中学校助教諭心得を免ず
社会
14
平成18年 4月 21日
  NHK朝の連続ドラマ「純情 キラリ」に寄せて、明治の女子教育の方針
   PART 2

  「高等女学校授与式」 佐賀新聞明治42年3月27日付け2面より
   明治から昭和の敗戦までの、日本の女子教育の基本は、「良妻賢母」である。 明治42年3月26日 佐賀高等女学校の第6回卒業式が挙行された。この中で横尾校長の卒業生に向けたはなむけの訓示があった。
「純情 キラリ」の世界である。よく、読み返してみると、昭和前期の重苦しさがまだ見られない。今後のドラマの展開と比較してみるのも、面白い。
  関心のある方は、どうぞ。

   1 親を養う要は、、温和と楽寛とに在り
   1 夫を助くるの要は、恭敬と謹慎とに在り
   1 子女を教育する要は、厳正と慈恕とに在り
   1 家政を整理するの要は、緻密と秩序とに在り
   1 運為の要は、赤誠と忍耐との精神を以って、
      之を一貫するに在り  
社会
13
平成18年 2月 6日
  アメリカ人ビーリーが見た明治の日本の社会

   明治33年10月の記事にまたまた面白いものがあった。
  関心のある方は、どうぞ。  

    ビーリー氏の「日本風俗観」
  米国人ビーリーは、明治中頃、よく登場する人物である。キリスト教ルーテル派の伝道師で、佐賀中学の語学教師としても登場する。
  彼の見た日本や佐賀の当時を知る記事として、掲載しました。
  なお、ビーリーについては、もう少し調査をする予定です。
  (※ 文は、難解のため、箇条書きで掲載)
    佐賀新聞明治33年10月7、9、10日付け2面より

  ビーリーは、冒頭では、「日本が短期間に西洋文明を採り入れたことは、他に類を見ない。
  外形だけではなく、衣服内の内部も変化を遂げている。日本は、実に熱心な前進的国民である」  とほめている。
  しかし、各種の奇習、風俗には、閉口しているようである。特に道徳的価値観には、憤りと義侠心も発揮している。
  この中には、今もかなり、日常的に残っているものが多い。

  1 外国船が入港すると、多数の石炭を積んだ小船が集まり、約500人ほどの半裸体の小、壮、男女が煤顔で、石炭を手篭に入れて、手渡しで船倉を満たす。

  2 西洋では、人はもちろん、荷物も牛、馬が挽き、運送する。日本では、人力車を始め、荷車も人が挽く。

  3 婦女子は、男同様に田畑、鉄道、建築の現場で働く。

  4 日本では、男が安座し、その妻は席がなく、直立していることに、毫も意に介せず、むしろ当然のこととしている。

  5 日本の男子は、公然と妾を蓄え、自分の家の内にも囲い、いわんや妾と手を携えて外出する

  6 乗り物を利用する場合も、常に男が先に立ち、女が後に従う。夫が素手で傲然と闊歩し、妻が重い包みを持ったり、太った小児を背負ってついてゆく。

  7 夫が公然と、妻を暴行する。自己の妻を殴打することは、下層社会の常態である。
 
  8 同一浴槽に、男女が打ち揃って混浴する。

  9 街中で、殊に夏は、子供の半数は、裸体で徘徊。人夫の多数は、ふんどし姿(股間に衣を有する)で往来する。 店員も、時としてふんどし姿で外に出ることもある。

  10 キツネがついたとして、容赦なく鞭達したり、夜中にキツネを追い払うとして、ほら貝を吹いたり、「モドセー、カエセー」と大声で叫んでまわる。

  11 汽車の中で、婦人が蛇を入れたビンを取り出し、アルコールを痛飲する。

  明治の時代は、完全な男性社会です。外国人の牧師さんの目の前で、強精剤のマムシを入れたまま酒を飲む女性も面白いですね。
  思い出すと、ホンの最近まで存在した日本の社会です。
社会
12
平成18年 1月 14日
  商都「牛津」にアメリカ人医師が開業

   明治33年9月21日の広告にまたまた面白いものがあった。   関心のある方は、どうぞ。  

  「本院診察時間」  佐賀新聞明治33年9 月21日付け4面より
  毎日午前8時より午後4時まで診察可
  院長 米国人 ドクトル エプロンニューマン
  私立ニューマン牛津病院
  但し、院長不在の節は再広告す
  9月19日  

  僅か6行の広告であるが、明治33年にアメリカ人医師が小城郡の港町で開業していることが分かる。
  この頃、さかんに、キリスト教伝道師が地方都市までいりこみ、活動していたことは記事にも出てくるが、医師は極めて稀である。  
  どんな縁で、この町に開業したのだろうか、また当時のこの町の繁栄振りを示すものである。  
  どなたか、この病院について知りませんか?
衛生
11
平成18年 1月 4日
  小学校の返事は「ナーイ」?

   明治33年8月の小記事に、又面白い記事が出てきた。   関心のある方は、どうぞ。  

  「小学校の言語改良」  佐賀新聞明治33年8月30日付け3面より
  (要約文)  佐賀郡の鍋島養正尋常小学校では、かねて児童の方言の矯正に取り組んできた。
  ある日、学務委員が児童に何か聞いたところ、「ハイ」との返事が返ってきた。 不思議に思い、いろいろ聞いたが、その児童は、佐賀の方言を用いなかった。 どうも他県人ではないかと、村名、番地を聞いたが、地元の住民であった。
  これは、短期間にこのように上達したとは、誠に養正校の名誉なりと語った。

  私が、佐賀に来たのは、昭和40年である。
  佐賀、神埼郡の田舎の中年以上の人たちが、盛んに、「ナイ、ナイ」を連発し、閉口したことがある。
  この新聞から読み取れることは、当時「ハイ」と標準語で答える児童が極めて少なく、新聞には書いていないが、子供も大人も「ナイ、ナイ」を連発していたようだ。

    追記 明治33年9月19日付け2面から(要約文)  
佐賀郡の松梅、小関連合教育会を14日に開催   
小学校令について、協議し、次のことを決めた  
<1> 作文科については、言文一致の方針を執る  
<2> 生徒の言語を改良する、なるだけ普通語を練習せしめ、
  従来の「ナイ」の返答のごときも、    「ハイ」に改める  
<3> 生徒を呼ぶときは、必ず姓を用いること

この記事により、その年の8月に「小学校令」の大改正が行われ、尋常小学校で使用する仮名遣いの改正が行われた。
例  くわ → か、 づ → ず等 (小学校令施行規則付表)
この施行に伴って、この時期に方言の矯正がされていたことが分かる。
この頃、軍隊に入隊した佐賀出身者は、点呼の際、名前を呼ばれて、つい「ナイ」と返事して、困ったでしょうね。  この頃から、「佐賀にはあるものがない」と言われたのではないでしょうか・・・・
教育
10
平成17年12 月13日
  佐賀市の唐人町通り
   明治33年8月の小記事に面白い記事が出てきた。   
  旧佐賀駅から中央大通りに繋がる唐人町通りの沿革である。   
  関心のある方は、どうぞ。  
  「停車場通りの道幅取広げに就いて、」 佐賀新聞明治33年8月24日付け2面より
土木
9
平成17年11月29日
  明治の新聞の値段
   明治40年4月の広告に、新聞の値段が掲載されていた。広告主は、佐賀市内の書店「大坪惇信堂」と新聞取扱専門の「小林新聞舗」である。これに佐賀新聞の枠外の値段表をあわせて、掲載した。  
  
  明治の新聞の値段
   明治40年4月3日付け佐賀新聞3面(広告)より
東京  
  万朝報 30銭  読売 35銭  報知 30銭  東京日々 40銭  
  国民 35銭  東京時事 50銭  日本 40銭 二六 24銭 
  東京朝日 37銭 都 35銭 
大阪  
  大阪毎日 45銭 大阪朝日 45銭 大阪新報 35銭
九州  
  福岡日々 37銭
佐賀  
  佐賀新聞 30銭(前金)  1枚(1部のことか)2銭 
  6月(前金、郵送料込み、1割引)2円40銭
   配達料 佐賀郡内3銭、他郡8銭  郵送料 13銭  
  佐賀新聞の1月分の購読料を配達料を引いて検算すると、    
  1割引で,(2円40銭ー郵便料金13銭*6月)÷6月=27銭 
  定価で30銭となる。   
  したがって、今の新聞配達制度に引き直すと、
  1月配達料込みで43銭      

  賃金水準に比較すれば、   
    当時の県庁の新採の属、巡査の初任給が12円、
    佐賀新聞購読料が43銭(初任給の35.8%)   
    現在の大卒の初任給が16万円とすれば、
    佐賀新聞購読料が現在2905円(初任給の1.8%) 

  当時の新聞購読料金は、随分と高いですね。新聞は庶民にとって高嶺の花でした。
教育
8
平成17年11月25日
  明治40年4月の各学校の入学定員
   明治40年3、4月の広告や記事から県内の中学校、女学校などの入学定員を掲げてみた。現在と比較すると、大分異なっていますね。
皆さんの各地域の学校はどうなっていますか。
又、今の学制とどう異なっているか、比較してみましょう。
  
  各学校の生徒募集定員(順不同)

  佐賀市立佐賀商業学校予科100人、私立第五仏教中学校80人 、県立佐賀農学校50人、郡立伊万里商業学校45人、県立商船工業学校航海科30人、同機関科25人、分校機械50人、私立佐賀盲唖学校80人、県立有田工業学校本科35人、同別科20人、私立神陽学館80人、私立成美女学校本科150人、同技芸科60人、県立佐賀中学校180人、県立鹿島中学校100人、県立小城中学校100人、県立唐津中学校100人,県立佐賀高等女学校100人、唐津町立唐津女学校150人、北鹿島村外4か村立鹿島女学校100人、県立佐賀師範学校本科72人   

  商船工業学校、神陽学館は現在ありません。師範学校は佐賀大学の文化教育学部に昇格しています。また、鳥栖、武雄地方に学校がありません。学校の設立の目的や位置の変遷も面白いですよ。
教育
7
平成17年11月21日
  明治時代の辞令の形式
     明治の時代は、今と違って、どうも定期人事異動という概念があまり存在しないようだ。
生徒を抱える学校でも、年度途中人事異動があっている。新聞紙上に辞令が掲載されているので、時々主な「型式例」を掲載したい。
傭われの方は、自分の辞令と照合してはいかがでしょうか。
それにしても文末の辞令は、一寸そっけないですね。ところがこの形式、再三登場します。一般的なスタイルであったようです。
    (注) 氏名は、原則として「佐賀太郎」としますが、著名な人物については、原文。
軍 人
               海軍大佐   小田喜代造
     補   海軍軍令部出仕

          敷島 副長 海軍中佐  高木七太郎
     免本職 補 香取副長

学 校
          商船工業学校分校 教諭 佐賀太郎
     願いにより本職を免す     

           小城中学校  助教諭 佐賀太郎
     任 小城中学校教諭(十級俸給与)  

          小城中学校教諭心得  佐賀太郎
     (月俸45円給与)

               佐賀太郎
     命 鹿島中学校書記心得(11円給与)
県庁職員 
        15円    林業助手  平 又市
     佐賀県林業技手を命ずる(各頭書の通) 
     (注)この方は、佐賀県庁に長く勤務され、戦後も勤務、県庁の生き字引として有名な方でした。 

  なかには、原文どおりではないと思いますが、「佐賀県師範学校助教諭 佐賀太郎氏は 御用済みにつき職務を免じられる」という記事も散見されます。
その他
7
平成17年10月21日
  御真影の下付
  
  「本荘校御聖影送迎」
    明治40年2月27日、21日付け佐賀新聞2面

  戦前の教育では、皇民教育が重視され、そのシンボルが「教育勅語」と両陛下の写真である「御真影」。
戦後の教育を受けた私にとっては、時々倉庫から発見される漆塗りの箱にしまわれていた教育勅語と古い民家の高い位置の写真、学校建築の際取り壊される奉安殿のニュース程度である。
  今日は、たまたま御真影の下付の珍しい記事が出てきたので、どのように学校に渡されていたか、当時の様子を紹介したい。戦前の教育を知る上で、貴重な記事である。

  佐賀郡本庄尋常小学校(現在の佐賀市立本庄小学校)は、明治25年10月1日に両陛下の御尊影を下付されていた。これは16年前に撮影されていたもので、旧式に属し、色があせていたので、村長から交換を申請していた。
「2月26日、奉送は、先頭に大国旗を押し立てて、郡長代理、村長、校長等が供奉し、警官2名が前後方を護衛、3、4年生が後ろに従い県庁に向かう。
県庁の正庁では、村長から知事に旧影を返還し、新影の下付を受ける。帰りは奉送と同じ様にして帰校する。
学校では、講堂で君が代を3唱し、奉安室に収める。その後、祝杯を上げ、聖寿の万々歳を3唱して終わる」
    (読みやすく口語文にかえています。御真影の名称は、記事をそのまま使っています。文中の県庁の「正庁」は、戦前の旧庁舎にあり、公式行事に使用されていました。現在の本館の玄関の真上の4階会議室に当時の名称を残しています。)

  なお、散見するものでは、遠隔地の学校の場合、駅からこのような奉迎を受ける場合が多い。到着が夜になった場合は、提灯行列する。(例:唐津女学校 日付は失念)
  勅語(謄本)は県庁で校長が下付を受けて帰校する。(40年1月16日付け下田尋常小学校)
余談ですが、学校はこの管理について、非常に神経を使ったようです。
管理上の責任追及も厳しいものがありました。某県師範学校の火災では、校長が進退伺いを出し、厳しい処分は免れないとの予測記事もありました。
教育
6
平成17年10月15日
  刑事犯の顔写真
  
  「凶賊の撮影」
    明治40年付け佐賀新聞

  犯罪を犯したり、国事犯の逮捕の有力な手段は、鑑識の方法として、人相書、のちの写真 、指紋、足型、手型、ごく最近のDNA鑑定の登場など、科学技術の発達とともに、長足の発展を遂げてきた。 明治40年頃の新聞を見ると、指紋は前歴のある者に有効だとして、その頃から登場している。

  一方、写真は江戸時代末期に長崎に伝来し、早くも明治7年の佐賀の乱の首謀者江藤新平の逮捕にも一役買っている。(この項、佐賀県警察史上巻、司馬遼太郎の「歳月」665Pにも詳しい記述がある) 幕府も坂本竜馬の手配に使っていたかもしれませんね。

  実際の撮影方法について、新聞記事があるので、紹介したい。

  「佐賀警察署では、昨日午後5時頃、石井写真師をして強盗殺人犯○○を撮影したり」とわずか3行の記事があった。

  大正期には、各県の警察職員に撮影技術を学ばせたと、前記警察史に記載があるので、明治期は、民間の写真屋さんが撮影していたと見える。

  今も残っていたとすれば、有名な事件ではガラス板の立派な肖像写真が残っているでしょうね。
風俗
5
平成17年10月9日
  「汽車の乗車のマナー」の始まり ? ?
  
  「汽車乗降の取締」
    明治40年2月520日付け佐賀新聞1面

  従来の習慣として、中間停車場に列車到着するや、旅客は乗降を争ふ結果、出入口を閉塞し、非常の混雑を極むるのみならず、往々危険を生ずるをあるを以って、当局に於いては右に付、其順序として降車を先にして、乗車を次にせしめ、敏捷に且丁寧に斡旋せしむる事に定め、今般各駅へ令達したりといふ

  日本の近代化の推進のため、非常に懇切なマナーの指導ですね。文章も簡潔。

  日露戦争に勝ち、1等国に仲間入りした日本は、早くも交通道徳の向上が求められたようです
風俗
4
平成17年10月6日
  明治40年頃の世相
  
  「音成警視の談片」
    明治40年1月16、17日付け佐賀新聞2面

  古い時代の世相を知るのは、庶民生活と密接な関係のある警察関係の統計が手っ取り早い。 明治時代の警察は、治安はもちろん、衛生、営業許可、消防など守備範囲がものすごく広い。幸い、上記日付の新聞に詳しい統計があるので、これを紹介したい。管轄は佐賀警察署管内。  注:単位は不正確です。  

  人力車 646台  自転車 223台  乗合馬車営業者 10人  渡し守働き 17人 役者 21人  木賃宿 75    旅人宿 90 雇い人受宿 90  湯屋 24  質屋 59  劇場 2  理髪店 305   鍛冶屋 63 売薬商121 氷雪販売198 蒸気機械営業者31  貸座敷 8 娼妓 62人  料理屋 78 酌婦 128人 飲食店 332  密売婦 60人  乞食説諭 758件  途上困難者 63件  路上酔倒者 37件等 (一部略)

  今の時代と大変異なっており、想像を超える社会です。
これを読むと、なにやら当時の人々のうごめきが目の当たりに浮かびますね。
このような社会背景を十分理解した上での、歴史の深層、とりわけ日本の近代化、教育、社会問題、歴史の連続性等の歴史理解が望まれます。
風俗
3
平成17年10 月3日
  学校の玄関に備え付けられた砲の由来
  
  「旧制佐賀中学の玄関」
    明治40年1月10日付け佐賀新聞2面

  先日、久しぶりに、佐賀城本丸歴史館を訪れた。当時の本丸の古い写真に、 学校として使用された写真があり、玄関の式台周辺に砲が置かれている。

  日露戦争後の新聞を見ると、戦利品として捕獲した武器を学校とか、神社に配布する記事が よくでてくる。戦中の金属回収や戦後の米軍による武器接取により、今は見かけることは殆んどない。この写真 を見て、これがその現物ではないかと予感がしていた。

  朝、例により、 新聞を調査していると、前記新聞に「佐賀中学校に三根校長を訪ふ. (中略) 血気の学生は意気旺盛熱心な教導の下に体力を練磨しつつあり、(中略)   玄関に臨め ば戦利品たる祈念武器両翼に厳然たり・・・

  との記事あった。 おそらく、この写真も、日清、日露戦争の際の捕獲した武器であろうと思われる。今の感覚では、学校の玄関に  武器が展示してある。一瞬、異様な感がしますね。そのほか、この記事には自治の養成、精神教育、生徒間の制裁も登場します。
戦争、教育
2
平成17年9月23日
  徴兵検査を女性が受けた話
  
  「丸髷の徴兵検査」
    明治35年の佐賀新聞から

   九州の某県某郡の徴兵検査会場では、早朝よりおびただしい若者が押しかけ、裸になり、検査官の前で身体検査を受ける。

  その中で、検査官が「某男」と名前を呼び上げる。「ハイ」と不似合いな優しい声がして、検査官の前に出たるは、水も滴るばかりの結立の大丸髪の鬢が一筋ハラリとかかる顔をかくした美人柳の腰のなよなよした・・・・。検査官一同、はっと驚き、視線はいずれも女性の顔を向き・・・女性はさも恥しそうに紅をちらし・・・
  検査官、さて変装女子かとあきれ、再度、名前を呼ぶと「ハイ」と答える。「男か、女か」と聞くと、「女」と答える。 

  不思議に思いながら、規程どおり検査すると、女性に相違なかった。出生のとき、男として戸籍に記載されたためであるとの由

  昔は、男子欲しさに、女の子に男の名前をつける風習があるが、戸籍の男女の区別にはきちっと、女と付けるべきだったでしょうね。それにしても、この記事の描写は、力が入っていますね。全文を掲載できないのが残念です。
珍談
1
平成17年9月5日
  豊臣秀吉が築いた名護屋城の謎
  
  「豊公時代の舊門」
    明治35年5月18日付け佐賀新聞から
  名護屋城から移築し、現存している建物は、唐津町呉服町の安楽寺と大手門を移築した松沢典氏の門。大手門は唐津城内の大名小路の1邸に移し、土井公時代は家老屋敷、水野公時代は用人屋敷、小笠原公時代は中老屋敷、その後は松沢氏が数十年居住している。
  材は樫材、方2尺3寸。某県人がぜひ譲り受けたいと相談中。
        (現代文に書き直しています)

  柱の1辺が約70センチであるから相当大きいものであろう。
  通説では、
    名護屋城の建物は、近松寺
    大手門は伊達政宗の仙台城、最近では大手門は複数あった
  との説が強い

  どなたか、この謎に挑戦してみませんか?
歴史の謎
 

Top Pageへ