第514回 自転車に乗れた

 平成14年 11月28日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

浄土真宗は、信心をいただくとか信心をとるとか信心獲得する
などといわれていますが、「信心をいただく」とか「もらう」とは
どういうことでしょうか


このことを最も明らかにされているのは、蓮如上人の『ご文章』です。
『ご文章』には信心獲得することを力説されており、「自力のこころを
すてて一心に弥陀をたのむ」とあります。


「一心に弥陀をたのむ」ということは、「一心」とはひとすじに
という意味であり、「弥陀をたのむ」ということは、おまかせする
ということです。「自力の心をすてる」という自力の心とは、
自らが救われるか否かというはからいです。


また、自らの側でたすかる心配をし、聞いて信心をこしらえる
ことをいうのです。
このような自らのはからい、自力心は、自らによってとりのぞくことは
不可能です。一心に弥陀をたのむことが、そのまま自らの
はからい、自力心が否定されることであります。


こうした文章を読ませていただきながら、ふとこんなことを
思いました。
はじめて自転車に乗れたときの思いです。


三輪車であれば止まっていても倒れることはありません。
しかし、自転車は、動かないと倒れてしまいます。
他人が乗っているのを見ると優しそうですが、倒れそうで
こわくて、すぐ足をついてしまいます。


止まらずに走っていればいいのに、怖くなってスピードを
ゆるめるたびに倒れそうになります。
自転車は動いている限りは自然の摂理で倒れ無いのに、
どうしても不安で無駄な力が入ります。


しかし、そのこつを飲み込むと簡単に乗りこなせるものです。
これはどうも、お念仏にお任せすることと、よく似ているようにも
思います。


同じことは、泳ぎでもいえます。手足を伸ばしておれば
人間は必ず浮くものだと頭で考えて分かっていても怖くて、
体に力を入れるとすぐ沈んでしまいます。


静かに体を横にして浮かせばいいのに、最初はそれが
なかなか出来ないものです。しかし、こつがつかめると、
もう怖くなく水に体を預けることができます。


自転車が倒れないで走れるのも、水に体が浮くのも、
お念仏を信じてお任せすればお浄土に生まれるのも、
自分で無駄な力を入れなければ、うまく行くものです。


そして、どちらの方向に走っていくのか泳いでいくのか、
その方向を示していただくのが、お念仏ではないかと思います。


欲望のままの生活、地獄の方向にすすむのではなく、
お浄土の方向へと導いていただくのです。


それは、気づいて見ると大きな船のプールの中で泳いで
いるように、お浄土の方向へと導いてくださっていることに
気づきます。


人前で歌ったり、踊ったり発表したりすると緊張して、日頃の
実力を出し切れない人がいますが、自分の持っている力を
精一杯発揮できるようになるのも、お任せすることができるか
どうかにかかっているのでしょう。

日頃努力しているその力を十分に出し切れと、一番良い方向へ
導くのでとの阿弥陀様の呼び声が南无阿弥陀仏ではないでしょうか。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、12月5日に新しい内容に変わります。



         

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