第483回 智慧の光

  平成14年 4月25日〜

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阿弥陀如来の働きを十二の光に例えて説かれていますが、
正信偈の中には 「普放無量無辺光、無碍無対光炎王、
清浄歓喜智慧光、不断難思無称光、超日月光照塵刹」と
説かれています。

@ 無量光とは→ 量ることのできない光。

A 無辺光→ 際限のない光。
B 無碍光→ なにものにもさえぎられることのない光。
C 無対光→ くらべるもののない光。
D 炎王光→ 最高の輝きを持つ光。
E 清浄光→ 衆生のむさぼりを除くきよらかな光。
F 歓喜光→ 衆生のいかりを除きよろこびを与える光。
G 智慧光→ 衆生のまどいを除き智慧を与える光。
H 不断光→ 常に照らす光。 
I 難思光→ おもいはかることができない光。
J 無称光→ 説きつくすことが出来ず、言葉もおよばない光。
K 超日月光→ 日月に超えすぐれた光。

・・・この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って
身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生まれる。


もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に
出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、
命を終えて後に迷いを離れることができる。・・・
と大経にはあります。


ところで歓喜光、喜びの光が衆生のいかりを除きよろこびを
与える光。とあります。


私たちが、喜びを感じるのは、自分の欲望が満たされた時が
ほとんどです。
ところが、そうではなく、いかりを除きよろこびを与えるとあります。


私のむさぼりを除く働きは、清浄光であると、衆生のむさぼりを
除くきよらかな光。清浄光だと説かれています。


私たちが、日頃、物質的な目に見える喜びだけを期待し、
追い求めていることに気づかされます。


喜び、歓喜の受け取り方を、誤らないようするためだったのか、
親鸞聖人はお浄土のことを「極楽」とは決しておっしゃらなかった
のだろうと思います。           


阿弥陀如来の国のことを、阿弥陀経には極楽と説かれていますが、
極楽の言葉から、自分だけが喜びを受けるのだろうと連想し、
誤らないように、配慮されたためだと思います。


そしてお浄土に生まれ、そこでの働きを、しっかり受け取って
ほしかった、伝えたかったからなのだろうと思います。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月2日に新しい内容に変わります。


          

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