第479回 求道の親しい友

   
平成14年3月28日〜

妙念寺電話サービスお電話有り難うございます。
毎年お渡ししています法話カレンダーの4月の所には、
こんな言葉が書かれています。

「善人も悪人も ひとしく 

        求道の親しい友である」

九条武子さんの言葉です。

明治20年、京都・西本願寺で誕生され、42歳の若さで
往生された九条武子さんは、仏教婦人会の礎を築いて
いただいただけではなく、数多くの短歌を詠まれ、
昭和2年に出版された、無憂華はベストセラーとなり、
広く親しまれています。


全国をご巡教になりましたが、その時の思い出は、
いまだに語り継がれています。


「善人も悪人も ひとしく 求道の親しい友である」と
の言葉は、随筆「悪の内観」に記されています。


この言葉の前には、「みずからの悪をかえりみ得ないものは、
ともすれば自我の小善を高ぶりがちである。」とあります。

自分の悪に気づくのは難しく、いつも善人の私がいます。

しかし、自分の中を見つめ直すと善人と悪人という二重構造が
見えてきます。他人のことを善人だ悪人だと決めつけてしまう
ことこそ問題だと思えます。


そればかりではなく、こうした道徳的な善悪の内容に
とどまっているだけではなく、もっと深い味わいを持つことが
重要です。


親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を伝えるために、この私に
仏説観無量寿経は説かれたのだと味わっておられます。
仏の智慧の眼には、すべての人間は凡夫と映るのです。


善人も悪人も実は凡夫なのです。
『歎異抄』の第三条には、他の善も要にあらず、念仏に
まさるべき善なきゆゑに。悪をもおそれるべからず、
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに・・・とあります。


どこまでも自分への執着を捨てられない私が、仏となるには
念仏しかないのだと、明かにしていただきました。


求道というのは「生きる道」そして「往生の道」凡夫が供に
歩む道、凡夫が友と一緒に歩むみち、それがお念仏の道、
念仏往生の道。


雑阿含経には、阿難尊者が 「さとりへの道を歩む者が、もし
善き友と共に歩むことができれば、それによって目的の
半分は達成されたと考えていいでしょうか。」 との問いに
お釈迦さまは 「善き友を持つということは、さとりに至る道の
半分ではなく、そのすべてである」 と答えられたとのことです。

私たちは、一人で生きていくことは出来ません。
社会のさまざまな関係の中で生きています。
どんな人に出会っても、念仏を一緒に喜び合う友となれば、
阿弥陀さまの願いの中でいかされる最善の友となるのです。


厳しいこの世の毎日を、お念仏の親しい友とともに生きて
いきたいものです。

妙念寺電話サービスお電話有り難うございました。
次回は、4月4日に新しい内容になります。


        
月々のことば 本願寺出版社 2002年版
                
筒井裕美子師 参照

          

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