第447回 念仏のある生活

    平成13年8月16日〜


妙念寺電話サービスお電話有り難うございます。
本願寺派の月刊誌「大乗」にこんなお話がありました。


武蔵野女子大の本多静芳先生の 『念仏のある生活』 と
いう文章です。


「最近念仏の声が聞こえなくなったようですが、どうしてなのでしょう」と
尋ねられました。


記録をたどると確かに江戸時代の本山では、堂内の群参の
称名が堀川通りにいる人にも地響きのように聞こえたそうです。


もっとも大声で称えれば良しというわけでもありませんし、
そう簡単に出たわけでもなかったようです。


明治三十三年に亡くなられた博多・万行寺の七里恒順師は、
念仏を申すことを人力車を引くことに譬えています。


 人力車を引き始める時、引く人には大変力がかかりますが、
いったん動いてしまえば、今度は方向を定めてやるだけで
スイスイと前へ進んでくれます。


 同様に念仏を称える時、始めはなかなか声に出ませんが、
称えられるようになると後はいつでもどこでも私の口をついて
出てくれるというのです。


 現在、皆、中流意識といいますが、それは自分を
偉い人間と受けとめる意識だと言われます。


こうした世間の印象からすると、念仏はインテリのする
行為とは反対のところにあるもののようです。
だから、念仏するのを躊躇してしまうのでしょうか。


 偉く立派になること、完全無欠の人間だということのみを
価値があると認め、それで自分の欲が満たされる社会では、
愚かそうに見える、謙虚そうに見える念仏を申すという姿に
気恥ずかしさを感じる人が増えているのではないでしょうか。


 十数年前、本山にお参りをした時、人気の少ない本堂で、
私の右斜め前で念仏しながら何か呟いている六十代半ばの
女性に巡り会いました。
気になるのでこっそり近づいてみたのです。


「なんまんだぶ、こんな愚かな私をお救い下さる、
ありがたいことです、もったいないことです、なんまんだぶ・・・・」。


私は十分程度で参拝を終えましたが、強烈に心の底に
残っている声であり、お姿です。


お念仏の声が聞こえなくなったのも事実ですが、今でも
念仏を称える姿が、とても謙虚で純朴な印象を与えることも
確かだと思います。各自の欲望充足の行動が争いや
差別などお互いの不幸しかもたらさないことが共通理解と
なった現在、自分の愚かさを呼びかけてくれる念仏が確かな
依りどころとなって、本来のはたらきを発揮してくれます。



『念仏のある生活』本多静芳さんの文章を紹介しました。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、八月二十三日に新しい内容に変わります。


   

          

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