第437回 閉ざされた世界

   平成13年 6月 7日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

ところで、私のところは、暴走族がよく通ります。
週末になると、近くの市役所の前には、多くの見物の若者たちが
集まってくるようで、その見物人の前で、華々しい暴走行為を
披露しているようです。


その会場へ向かうために、他人の迷惑も考えず、大音響とともに
走り回り、うるさいこと。
危険をも考えず無謀な運転、困ったものだと、思いますが、
当人たちはどうもそれが分からないようです。


自分の喜びだけではなく、見物が喜ぶので、その期待に応えて
頑張っているのだと、大変な誤解をしているようです。


迷惑な人がいることに気づかず、みんな自分たちを応援し
喜んでいると思っています。


暴走族の仲間の世界に生きると、真実が見えなくなって
しまうのでしょう。



 ことによると私たちも、こうした暴走族の仲間のような閉ざされた
世界の価値観で生きているのではないかと思います。


 全体が見えなくなって、自分の知っている狭い世界での
価値判断で勝手気ままな行動をしながら、それに気づいて
いないのが、今の日本人のほとんどのようです。   

 
自分だけよければ、自分さえ楽しければ、自分さえ豊かであればと、
自己中心主義、協調性のないエゴイズムになることが幸せだと、
考えています。


こうした片寄った常識を、片寄った価値観を転換される。

それが、お念仏の教えではないかと思います。
阿弥陀如来の願い、お浄土の話を聞かせて頂き、
この私の姿に気づき、転換させられていくのが、お聴聞、
お寺での法座。家庭での法座。お聴聞だと思います。


お聴聞では、何を聞くのか、阿弥陀如来の生起本末、
阿弥陀如来の願いを味わい、うなずき、お念仏することだと
思います。


親鸞聖人でさえ、百箇日、雨の日も風の日も法然上人の
元に通われ、お聴聞して初めてうなずかれた他力の教え。


聞かせていただくより他に、近道はないのだと思います。

 同じ門徒の家に生まれながら、生涯お念仏に出会うことなく
過ごすことは、空しい一生を送ることです。


 おいしいお菓子を、一部の者だけでこっそりと食べて
いるように、ひとかたまりの人だけが、よろこびを
得ているのでは、とても不公平です。


南无阿弥陀仏のお念仏に出会うことで、充実した豊かな
毎日を送らせていただきたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、6月14日に新しい内容に変わります。

   

          

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