第428回 気になって気になって

   平成13年 4月5日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
大乗という本願寺の月刊誌に、読者相談室というコーナーがあり、
「気になって気になって」という質問がありました。


世間では姓名判断や家相をみる墓相をみる、日の善し悪しを
言うなど、そのことを気にする人が多くいます。
私もとても心配性で気になります。浄土真宗ではそのようなことを
一切気にしないと言われますが、大丈夫なのでしょうか。という質問です。

これに対して、浅井成海先生がお答え頂いています。

その一部をご紹介します。

 まず私の心が人の言葉によって左右されないよう、しっかり思いを
定めておく必要があります。家族が病気になったり、事故にあった時に、
私たちの心を迷わすようないろいろなことを言う人がいます。
「先祖の霊にとりつかれている」「何かの罰があたったのだ」
「信心が足りないから不幸なことに見舞われた」など、本当に悲しい時や
苦しい時に、人の胸底をえぐるようにさらに悲しませたり、苦しませ、
恐れさせる宗教があります。


それらに迷ってはいけないと思います。

 一般に神や仏をその心にかなえば幸福をもたらし、そのこころに
かなわねば、罰を与えたり、災いをもたらす絶大な力をもったもの
として考えたり、説く人があります。これは仏教のこころを正しく
受けとめていません。


原因と条件が整えば、すべての人はいろいろなことにであって
いかねばなりません。
網の目のような条件と原因のかみ合わせによって、さまざまな
問題にであっていくのです。
すぐれた修行僧、聖者と讃えられる人でも、病気にもなれば死をも
迎えていくのです。


私がさまざまなことにであっていくのは、この世にいのちを
賜ったものがであっていかねばならない課題なのです。


親鸞聖人は、阿弥陀如来のご本願のみ教えこそが、私たち
一人ひとりを見抜いて、本当に力強く生きぬいていく道を
あきらかにして下さっていると教え下さいます。

私たち一人ひとりを一人子のように心配して下さって、力強く
生き抜く道を南无阿弥陀仏とお念仏のうちによびかけて下さいます。

心配して下さり、護って下さるのであり、罰を与えたり災いを
もたらすようなことは、一切ないとお教え下さるのです。


長い人生には別れもあり、失敗もあり、病気もあります。
あって当たり前なのです。それらの不幸にであわないようにと
恐れおののくのではなく、どのような問題にであっても、それを
乗り越えさせていただくのです。


親鸞聖人は「念仏は無碍の一道なり」(念仏のみ教えに
生きるものは、どのような障害物があっても乗り越え、
自由自在に力強く生きぬくことができる)と教えて下さいます。


心配性で、ささいなことも気になるというお気持ちはわかりますが、
聞法させていただき正しいみ教えをしっかり聞かせていただきましょう。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月12日に新しい内容に変わります。


             大乗 平成13年 4月号を参照

   

          

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