第376回  二つの浄土


   平成12年 4月6日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

前回、今月の法話カレンダー、平野修さんの 
「 どれほど道があろうと 自分が登るとなると一つです」
という言葉を紹介しました。


52歳という若さで亡くなられた平野さんの本を、これを
ご縁に改めて読ませていただきましたが、他の学者の
方々が書かれたものと違って、一般の人に分かりやすい
ようにと心掛けて表現されていることに気づきます。


『 浄土真宗の道しるべ 』 〜 浄土真宗はどんな教えか〜
というところに、こんなところがあります。


「浄土の真宗は、浄土ということを表すものです。
では、どんなふうに念仏するのか。それは、浄土に
生まれたいと欲って(おもって)念仏するのです。


今日一日無事でありました、ありがとうございましたと
言って念仏するのではない。


では、浄土に生まれるというのは、死んでからのことなのか、
それとも、今のことなのか。当然、こういう問題が出てきます。
また、浄土は心の中にあるのか、それとも別のところに
あるのかという疑問も出てきます。



 今日、多くの人が考えている浄土は、死んでからの浄土です。
そうでなければ、浄土は、自分の心の中にあると思っている。


心の持ち方一つで、この世は浄土にもなったり、地獄にも
なったりすると思っている。


また、浄土が死後の世界だということになってしまいますと、
いま生きている間はどうなるか困ったことがあっても、
苦しいことがあっても、浄土は死後のことだから、
今とあまり関係ないということになります。



娑婆に、苦しくていやなことがたくさんあっても、
まあ仕方がないということになります。

それでは、浄土の真宗というのは、死後教になってしまって、
現在に何も用(はたら)かないものになってしまいます。



 親鸞聖人は、お浄土について二つをお立てになって、
死後にあると考えられるような浄土や、心の持ちかた次第で、
浄土になったり地獄になったりする浄土というのは、
方便の浄土、仮の浄土であって真実の浄土ではないと
お示しくださいました。


そうすると、我々が考えている浄土は、ほとんどと
言っていいくらい、仮の浄土の中に入ってしまいます。

仮といっている意味は何かといいますと、家を新築する
場合に、仮屋というのがありますね。



家が完成しても、なおまだ仮屋の方がいいという人は
まずいないでしょう。

あれは便宜上建てられているものです。」   
・・・・・・



平野さんは、このように浄土真宗の教えを分かりやすく
述べていただいていました。



妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、4月13日に新しい内容に変わります。
  
                    

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