月の光も稲を育てる

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

座禅だけかと思っている禅宗にも、いろいろのご宗旨があるようで、

南無阿弥陀仏とお念仏もなさる黄檗宗の僧侶の方から

こんなお話しを聞きました。


私たちは、水や太陽や空気というものが生物を生かし、

私たち人間も、また生かされていることは良く知っています。

しかし、眺めるだけであり、あまり関係のないと思いがちな

夜空の月も、実は大変係わりがあるということです。

田圃の稲に、月の光を当てないように育てたものと、

普通に月の明かりを受けながら育ったものとを比較すると、

その成長には大きな違いがあるということです。


ですから月の光も、稲を育てることに役立っているというのです。

その稲を食べることによって生きている私たちは、月の光にも

生かされていると言えましょうし、何光年の遠い星もまた、

私たちのいのちとなっているのだと、おっしゃいます。


私たちは自分の人生は、50年100年と思っています。

この体と命も、自分だけの体と思っていますが、突然この世に

出現したのではなく、私の体の中には、両親の二人の細胞が

ちゃんと生きており、そのまた両親四人が生きてる。

そして、そのまた両親の八人、十六人、

三十二人と数えていくと、無数の先輩たちの命が、

現にいま生きていることになります。


また、私たちは世界中の食べ物を食べています、

気安くオレンジを食べていますが、これはアメリカの

カルホニアから運ばれてきたものであり、

それが、血となり肉となり私は生きているのです。


天地一杯の中に私たちは生きている、私一人だけで

生きているのではなく、天地一杯の中で生きている。



昔、ある僧侶に年齢をたずねたら、阿弥陀様と同じ年、

では、阿弥陀様はいくつですかと聞くと、この私と同じだという

返事が返ってきたといいます。


南無阿弥陀仏は、無量のいのちと無量のひかりを意味します。

と、禅宗の僧侶の方がおっしゃっておりました。


親鸞聖人は、帰命尽十方無碍光如来、という名号を多く書かれたようです。

禅宗の方がおっしゃるのは、さとろうとさとるまいと、

数限りなく多くのものに支えられ生かされていることには

間違いないことだと、おっしゃいます。


黄檗宗は、それに気づかせていただくのが座禅と念仏で

あるとおっしゃいます。

浄土真宗の私たちは、生かされていることを

気づくのが念仏での生活です。


生活の中での南無阿弥陀仏を、自分で称えて自分で聞きながら、

多くの人びと多くの生物、宇宙一杯にささえられ、

生かされていることに気づき、その喜びを味わいながら、過ごさせて

いただきたいものです。

妙念寺の秋の法座は11月1日と2日です。

ご講師は、平尾学道先生です。どうぞご予定ください。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、10月30日に新しい内容に変わります。

                         ( 平成 9年10月23日〜 第248回 )