阿弥陀如来の光明
 
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仏説無量寿経(大経)の内容です。
 
「お釈迦様は、阿難に仰せになる。
 無量寿仏の神々しい光明は(光明・ひかりのことですが)、
光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの
光明のとうてい及ぶところではない。
 
無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、
千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどある
東の国々をすべて照らし尽し、
南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下の
それぞれにある国々をも、すべて照らし尽くすのである。
 
 この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って
身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生まれる。
 
もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあって、
この光明に出会うなら、みな安らぎを得て、
ふたたび苦しみ悩むことはなく、
命を終えて後に、迷いを離れることができる。
 
 無量寿仏の光明は明るく輝いて、
すべての仏がたの国々を照らし尽くし、
その名の聞こえないところはない。
 
わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、
すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、
みな同じくたたえて、おいでになるのである。
 
もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、
日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、
願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、
菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちに、
その功徳をほめたたえられる。
 
 
その後、仏のさとりを開いたときには、
今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、
すべての世界のさまざまな仏がた菩薩たちに、
その光明をたたえれるであろう」お釈迦様は、
大経にこのようにお説きいただいています。
 
 親鸞聖人は、お手紙にこうおっしゃっています。
「信心の人となれば、その心すでにつねに浄土にこす。
(こすとは、居住するのキョの字ですが)、こすといふは、
浄土に、信心のひとのこころつねにゐたり、というこころなり。
 
これは、弥勒とおなじといふことを申すなり。
これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、
信心の人は如来とひとしと、申すこころなり。と
おっしゃっています。
 
阿弥陀如来の光明に照らされて信心の人となれば、
体はこの世にありながら、生きているうちから、
その人のこころは、お浄土にある。
 
だから、弥勒菩薩と同じであり、阿弥陀如来とひとしいのであると、
お書きいただいています。
 
 信心の人となれば、その心すでにつねに浄土にある。
お念仏して阿弥陀如来を讃嘆する私が、
やがて、お浄土に往生すれば、多くの仏様から讃嘆されるという。
 
その讃嘆の言葉、南無阿弥陀仏を自分で称え自分で聞いて、
味わいたいものです。
妙念寺電話サービス次回は、6月12日に新しい内容に変わります。
 
 
                       ( 平成 9年 6月 5日〜 第228回 )