第1283回 他者のしあわせを

 平成29年 8月31日〜

 梯實圓先生は 長年環境問題に取り組んだ方の本の序文に。
「自分の幸せだけを追求する人」は、その希望を失って 絶望する時が来ます。
しかし「他者の幸せを 願って生きる人」には、 どんな絶望的な状況の中でも、
必ず生きる目標が設定され、勇気と希望が湧いてくるはずです。


 人びとの痛みを自分の痛みとして引き受け、人びとの悲しみを
自分の悲しみと 実感する
「悲の心」は、同時に人びとの幸せを
我が事と慶び、人びとの幸せを 自分の幸せと思える
「慈の心」と 
なって、私どもの「いのち」を充実させてくれます。仏教徒は、
それを
「菩提心」と 呼んで仏道の基礎としてきました。


 梯先生はこの本が出版された年の五月に往生されましたから、
まさに 遺言のような言葉です。


 一度きりの人生、どうせなら楽しまねば損だ、遊ばねば損だという 
人生観があります。 
この考え方の落とし穴は、いつか必ず遊べないようになる、楽しめ
ないようになることを忘れていることです。  
楽しめないようになったとき、遊べないようになったとき、では 
どうして生きていけばよいのでしょうか。


それに対して他者の幸せを願って生きる人」には、どんな絶望的な
状況の中でも、たとえば大きな病と ともに生きているときも、必ず 
生きる目標が設定され、勇気と希望が わいてくると梯先生は仰います。


 そして他者の痛みや悲しみ、幸せを自分のこととして受けとめる
慈悲の心は、私のいのちを充実させてくれる。仏教徒はそれを「菩提心」
と呼び、それを実践していくことが 仏道の基礎だと仰るのです。


 ある法事の席で質問されました。「 私は人間に生まれて 人間として 
死んでいく。それでかまわないと思うのですが、なぜ仏に成らねぱ 
ならないのですか? 」と。蓮如上人の『御一代記聞書』に 
「 極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひ のぞむ人は仏に成らず 」。 

「 極楽 」という漢字は間違いやすい「 楽しみの極み 」ですから。 
何のために浄土に生まれ 仏に成るのか、己の欲を満たすためではなく
他の人びとを しあわせにするために 往生成仏があるのです。
 親鸞聖人は「極楽」という言葉をほとんど用いておられません。

「大」の字がつくと如来の仕事です。私たちは他者のしあわせを願う心、
すなわち菩提心を如来からいただくのですから「大菩提心」といいます。
親鸞聖人は菩提心を信心であるとおさえられます。信心も如来からいただく
ものだから 他力回向の信心といわれます。
信心は必ず 「南無阿弥陀仏」という形に表れますから、お念仏も いただきものなのです。


菩提心、信心、念仏は 如来の回向です。如来の回向ですから人間の素質や
努力によって差別や区別がつきません。
親鸞聖人が大切にされた「真実」とは「いつでも、どこでも、だれにでも」
平等にあてはまるということです。そして、菩提心がいただくものであると
するならば、私たちだれの身の上にもあてはまるということです。

   自照同人 武田達城師「他者のしあわせを願う心をいただく」より一部


          


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